丸メガネの人物史~日本編(学者・文化人)その1

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メガネの原点は実は「丸」です。

現代のように枠にあわせてレンズを削るのではなく、昔は丸いレンズを削らずにそのまま枠に入れるという方式だったので、自然と枠は丸になったわけです。昔の有名人で丸眼鏡の顔写真を思い浮かべる人は多いのですが、それは、昔は丸か楕円しかなかったからです。

明治・大正・昭和初期と多くの学者や作家、政治家が丸メガネをかけていました。

学者や作家の丸メガネは、今でもなるほどと納得させられる部分がありますが、現代では、政治家が丸メガネをかけている「図」というのはほとんど見当たりません。

いわゆる「現代のメガネ」をかけている政治家よりも、明治・大正・昭和初期に丸メガネをかけていた政治家のほうが、より人情があり、また、政治に対する理想や志の高さを感じるのは、気のせいでしょうか?




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1880年(明治13年)以前


《生年順》
生年 名前
1841 中村秋香
1843 弘世助三郎
1847 山田久米子
1851 矢田部良吉
1852 高村光雲
1853 北里柴三郎
1854 下田歌子
1854 辰野金吾
1854 高峰譲吉
1855 菊池大麓
1857 佐藤三吉
1859 坪内逍遥
1860 宮部金吾
1861 田辺朔郎
1861 小栗貞雄
1861 三好学
1862 牧野富太郎
1862 新渡戸稲造
1862 上山英一郎
1863 徳富蘇峰
1863 岩井勝次郎
1863 清沢満之
1863 油屋熊八
1864 二葉亭四迷
1864 若松賎子
1864 大塚惟明
1864 伊藤左千夫
1864 池田菊苗
1865 白鳥庫吉
1865 長岡半太郎
1865 臼井 甕男
1865 中村長八
1865 竹越與三郎
1866 神坂雪佳
1866 平生 釟三郎
1866 金子直吉
1866 藤井健次郎
1866 木村駿吉
1867 井上通泰
1867 宮武外骨
1867 豊田佐吉
1867 伊東忠太
1868 関野貞
1868 鈴木米次郎
1868 小川芋銭
1868 内田魯庵
1868 瀬戸口藤吉
1868 大森房吉
1868 徳富蘆花
1868 北村透谷
1868 丘浅次郎
1868 田中頼璋
1869 大町桂月
1869 森小弁
1869 上田万秋
1869 杉田直
1870 本多光太郎
1870 西田幾多郎
1870 今村明恒
1870 鈴木大拙
1870 藤本清兵衛
1871 堺利彦
1871 志賀潔
1871 喜田貞吉
1871 柴山五郎作
1871 本山白雲
1872 田山花袋
1872 徳田秋声
1872 島崎藤村
1872 山室軍平
1872 岡本綺堂
1873 与謝野鉄幹
1873 安宅弥吉
1873 美濃部達吉
1873 桐生 悠々
1873 津田左右吉
1873 泉鏡花
1873 川合玉堂
1873 朝河貫一
1873 河東碧悟桐
1874 河井 醉茗
1874 本因坊 秀哉
1874 岡田武松
1874 小室翠雲
1874 早田文蔵
1875 高木貞治
1875 横田成年
1875 柳田國男
1875 結城素明
1875 栗本勇之助
1876 高野辰之
1876 杉浦非水
1876 上中啓三
1876 中村天風
1876 中尾都山
1876 橋本静水
1877 谷津直秀
1877 柴田桂太
1877 飛田周山
1877 中村春二
1878 今裕
1878 岡野貞一
1878 有島武郎
1878 平賀譲
1878 牧野英一
1878 野村徳七
1878 川喜田 半泥子
1878 荒井寛方
1879 犬童球渓
1879 滝廉太郎
1879 河上肇
1879 永井荷風


<生年順>

中村秋香

中村秋香(なかむら あきか、天保12年9月29日(1841年11月12日)~明治43年(1910年)1月29日
静岡生まれ。国文学者、詩人、歌人。父は静岡藩士。嘉永6年(1853)駿府城代与力見習として出仕。松木琴園の門弟となり、また、戸塚精斎から漢学を学ぶ。明治4年(1871)廃藩置県により愛知県に仕官。6年(1873)に教部省、12年(1879)に文部省、23年(1890)には東京女子師範学校、翌年第一高等中学校に奉職。30年(1897)に高崎正風の推薦で御歌所寄人となる。また、35年(1902)には唱歌選定委員嘱託も受ける。和歌や古典の注釈書を多く執筆している。出典:近代日本人の肖像




弘世助三郎

弘世 助三郎(ひろせ すけさぶろう、天保14年1月3日(1843年2月1日) - 大正2年(1913年)11月17日)は滋賀県出身の実業家、政治家。旧姓川添(川添家の次男として生まれるが、おじに当たる商人、弘世助市の養嗣子となる)。第百三十三国立銀行頭取で、日本生命保険の創業者。





山田久米子

山田久米子(やまだくめこ、弘化4年3月16日~明治44年12月19日 (1847~1911)
東京神田生まれ。かつては産婆といわれた、職業としての助産婦の草創期の人物。助産婦の組織化や教育に貢献し、各宮家にも仕えた。明治41年頃に電話を引いている助産婦は少なかったが、新橋72番の2桁の電話番号を持って活躍していた。出典:近代日本人の肖像
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矢田部良吉

矢田部良吉(やたべ りょうきち、嘉永4年9月19日(1851年10月13日) - 1899年8月8日)は、日本の植物学者、詩人。伊豆韮山生まれ。明治2年(1869年)開成学校教官、明治4年(1871年)米国に渡り、翌年コーネル大学で植物学を学ぶ。明治10年(1877年)東京大学初代植物学教授となる。1891年非職。外山正一、井上哲次郎とともに『新体詩抄』を上梓した。東京植物学会を設立、ローマ字論者でもあった。鎌倉で遊泳中に溺死。UP




高村光雲

高村 光雲(たかむら こううん、嘉永5年2月18日(1852年3月8日) - 1934年(昭和9年)10月10日)は仏師、彫刻家。東京生まれ。詩人・彫刻家の高村光太郎、鋳金家の高村豊周は息子。写真家の高村規は孫。仏師高村東雲の門に入って木彫を学び、高村姓を継ぐ。
明治維新以後は廃仏毀釈運動の影響で仏師としての仕事は無く、木彫も輸出用の象牙彫刻が流行し衰え、光雲自身の生活も苦しかった中で木彫に専念、積極的に西洋美術を学び、衰退しかけていた木彫を写実主義を取り入れることで復活させ、江戸時代までの木彫技術の伝統を近代につなげる重要な役割を果たした。
1877年内国勧業博覧会で最高賞を受賞。1886年東京彫工会を設立。1890年から東京美術学校に彫刻科教授として勤務、山崎朝雲、など後進の育成にも尽力した。代表作は「老猿」「楠公像」「西郷隆盛像」など。UP





北里柴三郎

北里 柴三郎(きたさと しばさぶろう、嘉永5年12月20日(1853年1月29日) - 昭和6年(1931年)6月13日)は、日本の医学者・細菌学者。男爵。「日本の細菌学の父」として知られ、門下生からはドンネル先生(ドイツ語で雷おやじの意)との愛称で親しまれた。現・東京大学医学部卒業後、ドイツベルリン大学へ留学し、コッホに師事。血清療法という画期的な手法を開発、1890年にはその手法をジフテリアに応用し、同僚ベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表した。ベーリングはこの業績によりノーベル賞を受賞するが、北里は候補に挙がったのみであった。1892年に帰国後、福沢諭吉により慶應義塾大学に私立伝染病研究所が設立され、初代所長となる。1894年にはペスト菌を発見するという業績をあげた。1914年に伝染病研究所が東大に帰属させられると北里は新たに私立北里研究所(北里大学の母体)を設立し、狂犬病、インフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清開発に取り組んだ。UP





下田歌子

下田 歌子(しもだ うたこ、本名:平尾 鉐(ひらお・せき)、安政元年8月9日(1854年9月30日) - 昭和11年(1936年)10月8日)は、明治から大正にかけて活躍した教育家・歌人。岐阜県出身。女子教育の先覚者。
1872年(明治5年)、女官に抜擢され宮中出仕する。岩村藩の藩士の家に生まれた歌子は武家の子として身に付けた礼儀作法や、儒学者の祖父仕込みの学識、和歌の才能で昭憲皇太后から寵愛され「歌子」の名を賜り、宮廷で和歌を教えるようになる。結婚を期に宮中出仕を辞したが、その後も生涯を女子教育の振興にささげ、実践女子学園や順心女子学園設立の基礎を築いた。
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辰野金吾

辰野 金吾 (たつの きんご、1854年10月13日〈嘉永7年8月22日〉- 1919年3月25日) は、佐賀県出身の建築家。工部大学校(のちの帝国大学工科大学、現在の東京大学工学部)卒業。工学博士、帝国大学工科大学学長、建築学会会長。設計の頑丈さから「辰野堅固」と呼ばれた。帝国大学では後進の指導にも励み、伊東忠太、長野宇平治、武田五一、中條精一郎、塚本靖、野口孫市、大沢三之助、関野貞らの人材を輩出した。 帝国大学総長渡邉洪基(渡辺洪基) の意向を受け、工手学校 (工学院大学) の創立(明治20年)を推進し、運営にも尽力した。主な作品に、日本銀行本店(重要文化財)、中央停車場(重要文化財、現、東京駅、東京ステーションホテル)、大阪市中央公会堂(重要文化財)などがある。東大仏文科で小林秀雄、三好達治らを育てたフランス文学者・辰野隆は息子である。UP





高峰譲吉

高峰 譲吉(たかみね じょうきち、嘉永7年11月3日 (1854年12月22日) - 大正11年(1922年)7月22日)は、日本の科学者。工学博士・薬学博士。富山県高岡市生まれ。現在の東京大学工学部の前身の一つである工部大学校応用化学科を首席で卒業。理化学研究所の設立者の一人。1912年帝国学士院賞受賞。
農商務省時代に1884年アメリカニューオリンズで開かれた万国工業博覧会に事務官として派遣され、そこで出会ったキャロライン・ヒッチと結婚、渡米し、アメリカに永住。1894年には消化薬として有名な「タカジアスターゼ」発明、1900年にはアドレナリンの結晶抽出に成功。世界ではじめてホルモンを抽出した例となった。アドレナリンは止血剤としてあらゆる手術に用いられ、医学の発展に大きく貢献した。UP





菊池大麓

菊池 大麓(きくち だいろく、安政2年1月29日(1855年3月17日) - 大正6年(1917年)8月19日)は、明治・大正期の数学者、政治家。幕末・明治初期に、2度イギリスに留学し、ケンブリッジ大学で数学・物理学を学ぶ。帰国後1877年(明治10年)、東京帝国大学理学部教授となり、近代数学を初めて日本にもたらした。同大学総長、学習院院長、京都帝国大学総長、理化学研究所初代所長等を歴任、1902年(明治35年)には男爵を授けられた。政治的手腕もあり、帝国学士院会員及び同第8代院長、貴族院勅選議員、文部省専門学務局長、文部次官、文部大臣、枢密顧問官等を歴任した。長女・多美子は憲法学者の美濃部達吉と結婚。孫の美濃部亮吉も政治家である。UP




佐藤三吉

佐藤 三吉(さとう さんきち、1857年(安政4年) - 1943年(昭和18年)6月17日)は明治〜昭和期の外科医、医学博士、貴族院議員。美濃国大垣藩(現岐阜県大垣市)出身。東京帝国大学教授、東京帝国大学医科大付属医院長、東京帝国大学医科大学長として、同じ岐阜県出身の青山胤通とともに、日本近代医学の創生期に活躍した。日本最初の医学博士。UP





坪内逍遥

坪内逍遥 安政6年5月22日(1859年6月22日) - 1935年2月28日)は、明治時代に活躍した小説家、評論家、翻訳家、劇作家。現岐阜県美濃加茂市出身。本名は坪内雄蔵。
26歳のときの評論『小説神髄』によって、小説はまず人情を描くべきで世態風俗の描写がこれに次ぐと論じ、この心理的写実主義によって日本の近代文学の誕生に大きく貢献した。しかし逍遙自身これらの近代文学観が不完全なものに終っていることが、後に二葉亭四迷の『小説総論』『浮雲』によって批判的に示された。
早稲田大学の演劇博物館は、逍遙のシェイクスピア全訳の偉業を記念して建設されたものである。UP





宮部 金吾

宮部 金吾(みやべ きんご、万延元年閏3月7日(1860年4月29日) - 昭和26年(1951年)3月16日)は、日本の植物学者。北海道札幌市名誉市民。札幌農学校第二期卒業生(現在の北海道大学)。
武蔵国に生まれる。札幌農学校卒業後、開拓使御用掛となる。1883年、札幌農学校助教授に就任。1889年、札幌農学校教授に就任。1927年、定年退官。1946年、文化勲章を受章。1949年、札幌市栄誉市民となる。新渡戸稲造と内村鑑三は札幌農学校の同期。
然別湖に生息するミヤベイワナの名称は、最初の発見者である彼の名前にちなんで、農学博士の大島正満が命名したものである。植物の分布境界線「宮部線」に名を残している。UP




田辺朔郎

田辺 朔郎(たなべ さくろう、文久元年11月1日(1861年12月2日) - 昭和19年(1944年)9月5日)江戸に生まれる。土木工学者。琵琶湖疏水や日本初の水力発電所の建設、関門海底トンネルの提言を行った。工部大学校を卒業したばかりの23歳にして「琵琶湖疏水」の設計と監督の総責任者に抜てきされ、琵琶湖疏水は5年かけて1890年、約20キロが完成。物資の輸送路や電力源となり、京都に活気を取り戻した。完成まもない疏水は1900年発表の鉄道唱歌51番に「岩切り抜きて舟をやる 知識の進歩も見られたり」と登場した。東京帝国大学工科大学教授、京都帝国大学教授、京都大学工科大学長を務めた。退官後も大阪市営地下鉄などの各地の鉄道建設計画等に関与した。





小栗貞雄

小栗貞雄(文久元年1861年生まれ)衆議院議員矢野龍渓の弟。江戸時代幕臣小栗忠順の子の国子と結婚し小栗家に養子入り小栗家十四代として家督を継ぐ。
大隈重信の立憲改進党の結成に、兄・龍渓と共に参加して「郡区長公選論」を演説し、明治21年には改進党員を中心に組織された明治倶楽部に加わるなど政治の実践活動を行う。龍渓の意をうけて報知新聞の改革を推進し、31年8月には、衆議院議員となり一期つとめる。産児制限論を報知新聞に発表したり、社団法人実費診療所を設立し、医師加藤時次郎や実業家鈴木梅四郎と共に、社会改良主義に根ざした医療の社会化を目指した。UP




三好学

三好 学(みよし まなぶ、1861年(文久元年) - 1939年(昭和14年))は、明治・大正・昭和時代の植物学者、理学博士。美濃国岩村藩(現岐阜県恵那市)江戸藩邸に生まれ、幼年を岩村で過ごした。わずか18歳で、小学校校長に就任。その後、東京大学理学部生物学科を経て、大学院へと進み、植物学の研究を続けた。在学中、ドイツ留学を命ぜられ、帰国後35歳の若さで東大教授に就任、理学博士の学位を受ける。東大教授在学中に発表した研究論文は、100編におよび、その著書も100冊といわれ、わが国植物学の基礎を築き、桜と菖蒲の研究における、世界的な第一人者として著名。 地理学者の辻村太郎が、1937年に著した『景観地理学講話』の中で「景観」という言葉を生み出した人物としてとりあげている。また、日本に「記念物(デンクマール、denkmal )の概念を広めた人物でもある。UP





牧野富太郎

牧野 富太郎(まきの とみたろう、文久2年4月24日(1862年5月22日) - 1957年(昭和32年)1月18日)は、日本の植物学者。高知県出身。「日本の植物学の父」と言われ多数の新種を発見し命名も行った、近代植物分類学の権威。その研究成果は50万点もの標本や観察記録、そして「牧野日本植物図鑑」に代表される多数の著作として残っている。小学校中退でありながら理学博士の学位も得、生まれた日は「植物学の日」と制定された。
亡き妻の名を冠したスエコザサのエピソードはよく知られているが、私情を挟んだ献名は例外的であり、シーボルトが愛人お滝を偲んでアジサイに オタクサの学名を命名したことについては激しく非難している。ちなみにオタクサの由来をシーボルトは日本での地方名だと著書に述べていたものが事実に反し、お滝に献名したものであることをつきとめたのも牧野である。UP





新渡戸稲造

新渡戸 稲造(にとべ いなぞう、文久2年8月8日(1862年9月1日- 1933年10月15日)は、農学者、教育者。国際連盟事務次長も務め、著書 『武士道』)は、流麗な英文で書かれ、名著と言われている。日本銀行券のD五千円券の肖像としても知られる。
かなり熱しやすい硬骨漢であったが、学生時代にキリスト教に深い感銘を受け、敬虔なクエーカー教徒となり、後に妻となるメリー・エルキントンと出会うことになる。教授として札幌農学校に赴任した際に、新渡戸の最初の著作『日米通交史』がジョンズ・ホプキンス大学から出版され、同校より名誉学士号を得た。だが、札幌時代に夫婦とも体調を崩し、カリフォルニアで転地療養中に名著『武士道』を英文で書きあげた。日清戦争の勝利などで日本および日本人に対する関心が高まっていた時期であり、1900年に『武士道』の初版が刊行されると、やがて各国語に訳されベストセラーとなった。 UP




上山英一郎

上山 英一郎(うえやま えいいちろう、文久2年(1862年) - 昭和18年(1943年)9月7日)は、和歌山県出身の蚊取線香の発案者。また、「金鳥」の商標で知られる大日本除虫菊の創業者。
1887年、除虫菊の栽培に成功し、1890年、仏壇線香からヒントを得、持続時間1時間程の棒状の蚊取り線香を考案、発売する。1895年、妻・ゆきの「渦巻き型にすればよいのでは」というアイデアに着想を得て蚊取り線香の改良に着手、1902年に日本初の渦巻き型蚊取り線香を発売開始した。1910年、それまでの功績から藍綬褒章を受章した。UP





徳富蘇峰

徳富 蘇峰(とくとみ そほう、文久3年1月25日(1863年3月14日) - 昭和32年(1957年)11月2日)は、明治から昭和にかけて活躍したジャーナリスト、歴史家、評論家。徳富蘆花は弟。
戦前・戦中は亜細亜モンロー主義を主張する大思想家として多くのファンを有したが、戦後は評価が一転した。しかしながら、60年以上にもわたる言論活動と300冊に及ぶ著書は、近代日本の歩みと矛盾を体現したものであったとも言えよう。『近世日本国民史』は1918年(大正7)に起稿し、1952年(昭和27)に完結。史料を駆使し、織田信長の時代から西南戦争までを記述した全100巻の膨大な史書である。UP




岩井勝次郎

岩井勝次郎(いわい かつじろう、1863年5月28日(文久3年4月11日) - 1935年12月21日)は京都府出身の実業家。岩井商店の創業者であり、多角化戦略により岩井財閥を形成した。旧姓・蔭山。
大阪京町の堀通りで加賀屋文助として舶来雑貨の売買仲介業をしていた勝次郎の伯父である岩井文助のもとに奉公に出ていた勝次郎は、文助の長女栄子と結婚。「蔭山姓」から「岩井姓」となり、家業は文助・勝次郎の共同企業の性格を持つにいたった。しかし、事業観の相違から、勝次郎は明治29年(1896年)に独立営業に踏み切った。これが岩井商店のはじまりであり、その後、日商と合併して、日商岩井株式会社となった。関西ペイント、東亜紡織、日新製鋼など多くの岩井系企業を設立し、自らも、大正5年に岩井財閥の持株会社として合資会社岩井本店を創設し関西実業界の立役者になった。UP





清沢満之

清沢 満之(きよざわ まんし、文久3年6月26日〈1863年8月10日〉 - 明治36年〈1903年〉6月6日)は、明治期に活躍した真宗大谷派僧侶、哲学者・宗教家。院号法名は、信力院釋現誠。名古屋生まれ。
1878年2月、得度して真宗大谷派の僧侶となり、東本願寺育英教校に入学、その留学生として東京大学予備門に進み、1887年に東京大学文学部哲学科を首席で卒業。明治36年(1903年)6月6日、肺結核が悪化し、改革の道半ばにして西方寺にて死去、満39歳没。西洋近代哲学の素養の上に立って浄土真宗の信仰を受け止め、近代思想界に紹介した功績、また、そうした素養と信仰とに基づき、内外両面において仏教の近代化を推進した功績は大きい。晩年の著作からは、自身の深い信仰のあり様がうかがわれる。著述は『清沢満之全集』(岩波書店)に収載される。
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油屋熊八

油屋 熊八(あぶらや くまはち、1863年(文久3年) - 1935年(昭和10年)3月24日)は、大分県別府市を日本有数の温泉地に育てた実業家。別府観光の生みの親と言われる。亀の井旅館(現在の別府亀の井ホテル)を創業。バス事業にも進出し、日本初の女性バスガイドによる案内つきの定期観光バスの運行を開始した。様々な奇抜なアイデアで別府の宣伝に努め、別府の名前を全国に広めたが、地獄めぐりもその一つ。UP





二葉亭四迷

二葉亭 四迷(ふたばてい しめい、男性、元治元年2月28日(1864年4月4日) - 1909年(明治42年)5月10日)は、日本の小説家、翻訳家。二葉亭四迷の由来は、文学に理解のなかった父に、「くたばってしめえ!」といわれたことから。
江戸市ヶ谷生れ。東京外国語学校露語科中退。

坪内逍遥と交流を結び、その勧めで評論『小説総論』を発表。1887年から91年の間に出された写実主義小説『浮雲』は言文一致体で書かれ、日本の近代小説の先駆となった。また、ロシア文学の翻訳もよくし、ツルゲーネフの「あひゞき」「めぐりあひ」は特に有名。自然主義作家へ大きな影響を与えた。
後に『其面影』『平凡』を書いたが、1909年、ロシア赴任からの帰国途中、ベンガル湾上で客死した。UP




若松賎子

若松賎子(わかまつ しずこ、元治元年 3月 1日(1864年4月6日)-明治29年(1896年 2月10日)は、日本の翻訳家、小説家。会津若松生。フェリス女学院の前身校に学び、後に同校の教師となり、キリスト教の精神に徹した翻訳や創作、評論に麗筆をふるった。1890年(明治23)には日本で最初にバーネットの書いた本「小公子」を翻訳した。持病の肺疾患に心臓麻痺を併発し31歳で亡くなった。UP




大塚惟明

大塚惟明(おおつか これあき、元治元年4月2日(1864年5月7日)-昭和3年12月28日)は熊本県出身の実業家。東京帝国大学卒業。山陽鉄道、讃岐鉄道で斬新なサービスを展開、「旅客吸収策の天才」と呼ばれる。中長距離蒸気鉄道の電化と競合路線の併合により輸送力を強化し、斬新な旅客サービスと電化推進でわが国初の純民間鉄道を育てた。43年南海鉄道社長。大阪市会議員も務めた。UP




伊藤左千夫

伊藤左千夫(いとう さちお、元治元年8月18日(1864年9月18日) - 大正2年(1913年)7月30日)は日本の歌人、小説家。本名 幸次郎。現在の千葉県山武市の農家出身。正岡子規に師事。1905年には、子規の写生文の影響を受けた小説『野菊の墓』を『ホトトギス』に発表。夏目漱石に評価される。代表作に『隣の嫁』『春の湖』など。
左千夫は茶道にも通じており、子規から「茶博士」と呼ばれたほどで、左千夫の自宅を「無一塵庵」と名付けた。UP





池田菊苗

池田 菊苗(いけだ きくなえ、1864年10月8日(元治元年9月8日) - 1936年5月3日)は、京都出身の化学者。1889年、帝国大学理科大学化学科(現東京大学理学部化学科)卒業、大学院へ進学する。1896年東京帝国大学理科大学化学科の助教授をへて、ドイツ・ライプツィヒ大学オストワルド研究室に留学。1901年ロンドンに滞在中は夏目漱石と同じ下宿に住み、以降親交を持つ。帰国後、東京帝国大学教授に昇進。1902年、理学博士の学位を取得。1907年、酸甘塩苦の4基本味以外の味成分を「うま味」と名づけ、単離研究に着手。昆布の旨み成分がグルタミン酸ナトリウムであることを発見し、翌1908年にグルタミン酸ナトリウムを主成分とする調味料の製造方法を発明し特許を取得。1909年5月、うまみ調味料「味の素」が鈴木製薬所(現味の素株式会社)から発売された。本人はグルタミン酸を、「具留多味酸」と表記した。1913年、日本化学会会長。1917年、理化学研究所の創立に参加(同化学部長)。1919年、帝国学士院会員に任命される。1923年、東京帝国大学を退職。高弟に鰹節のうま味成分であるイノシン酸を発見した小玉新太郎がいる。小栗旬が池田に扮した味の素社のテレビCMが2008年より放映されていたことから、一般に認知度を広めている。UP





白鳥庫吉

白鳥 庫吉(しらとり くらきち、元治2年2月4日(1865年3月1日) - 1942年4月1日)は、東洋史学者、文学博士。東京帝国大学(現 東京大学)教授。千葉県出身。邪馬台国北九州説の提唱者として有名。弟子に津田左右吉など。外交官、政治家の白鳥敏夫は甥。
東大在学中はルートヴィヒ・リースに師事。その後学習院教授、東京帝国大学文科大学史学科教授を歴任。更に東宮御学問御用掛として東宮時代の昭和天皇の教育にも携わる。
1910年に「倭女王卑弥呼考」を著し、「邪馬台国北九州説」を主張。時を同じくして同時期の著名な東洋学者で「東の白鳥庫吉、西の内藤湖南」、「実証学派の内藤湖南、文献学派の白鳥庫吉」と並び称せられた京都帝国大学(現京都大学)の内藤湖南教授が「卑弥呼考」を著し畿内説を主張。東大派と京大派に別れ激しい論争を戦わせた。
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長岡半太郎

長岡 半太郎(ながおか はんたろう、1865年8月15日(慶応元年6月28日) - 1950年12月11日)は、日本の物理学者。長崎県大村市生まれ。土星型原子モデル提唱などの学問的業績を残した。また、東京帝国大学教授として本多光太郎や仁科芳雄など多くの弟子を指導し、初代大阪帝国大学総長や日本学士院院長などの要職も歴任した。1937年、初代文化勲章受章。ノーベル賞を受賞した湯川秀樹や朝永振一郎は仁科の弟子であり、長岡から見れば孫弟子にあたる。なお、朝永の父朝永三十郎は同じ大村市出身ということで、長岡とは旧知の仲であった。
1900年パリで開催された万国物理学会では、キュリー夫妻など当時の有名物理学者とともに参加、磁歪の研究成果を報告。1922年アインシュタインが来日で日本中でアインシュタインブームが起こった際は、宮中にて相対性理論の講義を行った。
原子核の周りを回る電子の問題については、1913年、ニールス・ボーアがボーアの原子模型を発表するに至って解決を見たが、それは、明治37年(1904年)に長岡が提唱した土星型の原子モデル(理由を厳密に説明できなかったことから当初余り注目されなかった。)と同じであった。
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臼井 甕男

臼井 甕男(うすい みかお、1865年8月15日 - 1926年3月9日)は、現在レイキとして世界中に広まっている手当て療法を中心とした民間療法の一種「臼井靈氣療法」(臼井霊気療法)の肇祖(ちょうそ)。岐阜県出身。
1922年4月に指導法や五戒(今日丈けは 怒るな 心配すな 感謝して 業をはけめ 人に親切に 朝夕合掌して心に念じ 口に唱へよ)を定めた上で臼井霊気療法学会を設立する。現在世界中に広まっているレイキは、臼井が養成した21または20人の師範(レイキを他人に伝授できる資格者)の一人林忠次郎がハワイ在住の日系人高田ハワヨに伝授したものが広まったもの。UP





中村長八

中村長八(なかむら ちょうはち、 慶応1年8月2日(1865年9月21日)-昭和15年(1940年)3月14日
大正昭和期のブラジル伝道の神父。洗礼名はドミンゴス。長崎県五島列島キリシタン家系の出。
奄美大島で25年間伝道の後,教皇庁と在ブラジル公使より開拓前線の索漠とした日本移民のために司祭派遣の要請があり,志願して大正13(1924)年60歳でブラジルに渡る。日本人として海外伝道の最初の神父となる。広大な荒野に散在した日本人家族を振分け荷を肩に徒歩や馬で巡回,ときには野宿,毎年9カ月は旅に暮らした。サンパウロとその隣接の州で足跡のおよばぬ所なく,秘蹟を与えるためには唯ひとりの信者でも毎年必ず巡回,それまで日本人を邪教徒視していたブラジル人からも聖人と慕われた。<参考文献>佐藤清太郎『中村神父を思う』 (前山隆) 出典:朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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竹越與三郎

竹越 與三郎(たけこし よさぶろう、慶応元年10月5日(1865年11月22日) - 昭和25年(1950年)1月12日))は、武蔵国(現在の埼玉県)出身の歴史学者・殖民学者・政治家。衆議院議員・枢密顧問官・貴族院勅選議員・宮内省臨時帝室編修局御用掛、編修官長などを歴任した。正四位勲一等瑞宝章。号は三叉(さんさ)。
慶応義塾在学中から執筆活動をはじめ、時事新報社などを経て徳冨蘇峰と知り合い民友社にはいった。後、国粋主義に傾倒していった蘇峰と対立し、民友社を退社。その後陸奥宗光・西園寺公望らの世話を受けて、明治29年(1896年)に『世界の日本』の主筆に迎えられ、同年開拓社より、代表作となる日本通史『二千五百年史』が刊行された。神武天皇の東征を天孫人種と土着人種の民俗対立と捉えるなど、文明史の立場から皇国史観とは違う視点から日本史を論じて版を重ねた。
竹越の著作は歴史上における国民または個人の思想動向とその分析の重要性と時期区分とその変化の法則性把握を提唱し、歴史における経済的要因を重視するなど、市民的立場からみた発展的歴史観を示した。また、ブルジョワ自由主義・ダーウィニズム的文明史観の立場から私有財産の永続性と個人の自由を人類史の到達点とみなして、社会主義や軍国主義には強く反対して以後の彼の政治活動を規定するに至った。また、死去まで慶應義塾評議員を務めた。UP





神坂雪佳

神坂 雪佳(かみさか せっか、慶応2年1月12日(1866年2月26日) - 昭和17年(1942年)1月4日)は京都で活躍した日本画家・図案家である。本名、吉隆(よしたか)。
御所警護の武士・神坂吉重の長男として京都栗田口に生まれる。1881年、16歳で四条派の日本画家・鈴木瑞彦に師事。のちに装飾芸術への関心を高め、1890年に図案家・岸光景に師事し工芸図案を学ぶ。この頃から琳派の研究を始めた。1901年に各国の図案調査を兼ねて、英国グラスゴー万国博覧会の視察のために渡欧。当時のヨーロッパではジャポニズムが流行し、日本美術の影響を受けたアール・ヌーヴォーが花開いていた。そこで日本の優れた装飾芸術を再認識したという。琳派に傾倒し、デフォルメ・クローズアップ・トリミングを用いた大胆な構図や「たらしこみ」の技法など琳派の影響を受けながらもモダンで明快な作風である。染織や陶芸・漆芸など暮らしを装う工芸品の図案も積極的に行った。蒔絵師の神坂祐吉は雪佳の実弟で、雪佳が図案した作品も多い。
2001年、エルメスが発行する雑誌「LE MONDE D`HERMES」の表紙を飾った。UP





平生 釟三郎

平生 釟三郎(ひらお はちさぶろう、慶応2年5月22日(1866年7月4日) - 昭和20年(1945年)11月27日)は、明治、大正、昭和初期に活躍した実業家、教育者、政治家。現在の岐阜市加納生まれ。1890年高等商業学校(現一橋大学)を首席で卒業。
1910年甲南幼稚園設立、1912年甲南尋常小学校設立、1918年甲南中学校設立、1923年旧制甲南高等学校(現甲南大学・甲南高等学校・中学校)設立、1926年甲南学園理事長、1931年甲南病院設立。1936年には広田弘毅内閣で文部大臣を務めた。カナモジカイの会員で『漢字廃止論』という本を出版している。1942年勲一等旭日菊花大綬章。
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金子直吉

金子 直吉(かねこ なおきち、慶応2年6月13日(1866年7月24日) - 昭和19年(1944年)2月27日)は日本の実業家。丁稚奉公から身を起こし、鈴木商店の「大番頭」として、大正時代に三井財閥、三菱財閥をしのぐ規模の企業グループに拡大させ、財界のナポレオンともいわれたが、昭和2年3月の金融恐慌で、台湾銀行による新規融資が打ち切られ、三井物産や三菱商事のように系列銀行を持たなかった鈴木商店は、資金調達が不能となり、事業停止・清算に追い込まれた。
鈴木商店崩壊のきっかけとなった米買い占めのデマが原因で、その汚名から社会的配慮に欠ける商人と解されることもあった。一方で、現場主導の分権的経営という『日本的経営』の一つのモデルを試みた起業家の一人であり、また強引と見られる事業の拡張も、貿易の主導権を日本人の手に、という明治のナショナリズムに突き動かされたものであった。倒産後に私財蓄財がなかったこともその表れである。 鈴木商店焼打ちをテーマにした小説に城山三郎著『鼠』がある。子息に、東京大学文学部長を勤めた哲学者の金子武蔵がいる。UP




藤井 健次郎
「博士の肖像」東京大学所蔵肖像画より

藤井 健次郎(ふじい けんじろう、慶応2年10月5日(1866年11月11日) - 昭和27年(1952年)1月11日)は、日本の植物学者。石川県金沢生まれ。東京帝国大学生物学科卒業。1901年からドイツ、英国に留学、植物形態学、細胞学、化石学などを学び帰国。1911年、東京帝国大学教授。1918年、日本初の遺伝学講座の新設(同大学理学部植物学科に設置)にあたり、細胞遺伝学を研究し、1929年、国際細胞学雑誌「キトロギア」を創刊した。「遺伝子」の命名者で、細胞核中の染色体のらせん構造を発見。1950年、文化勲章受章。『普通教育 植物学教科書』(開成館、1906年/明治39年)、『女子理科 植物教科書』(開成館、1913年/大正2年)などを著す。UP





木村駿吉

木村 駿吉(きむら しゅんきち、1866年11月12日(慶応2年10月6日) - 1938年10月6日)は、江戸生まれの日本海軍の軍属(教授、技師)、教育者、特許弁理士。帝国大学理科大学物理学科を卒業、さらに大学院で学ぶ。1893年-1896年にはアメリカのハーバード大学院・イェール大学で学ぶ。
海軍時代に艦船用無線電信機を開発し、日露戦争の日本海海戦を勝利に導いたといわれる。この電信機は、逓信省の技師・松代松之助が作り上げていた実験機を、海軍技師であった木村駿吉が大幅に改良した三六式無線電信機で、この無線機により「信濃丸」のバルチック艦隊発見が通報され、また、日本海海戦中も艦船間の情報交換が可能となり、通信技術に劣ったロシア軍より優位に立つことができた。ちなみに、無線機の電源は、島津製作所が国産第1号として開発した蓄電池だった。海軍退職後に、日本無線電信電話会社取締役となった。UP





井上通泰

井上 通泰(いのうえ みちやす、慶応2年12月21日(1867年1月26日) - 1941年7月14日)は明治期に活躍した桂園派歌人・国文学者、また眼科を専門とする医師でもあった。名は一にツウタイと通称する。幼名泰蔵。別号南天荘。
12歳で医師井上碩平の養子となる。1880年(明治13年)、東京帝国大学医学部予科に入学し、あわせて桂園派の和歌を学びはじめ、この頃より森鴎外と終生の交友を結ぶ。大学卒業と同時に医科大学付属病院眼科助手、2年後には姫路病院眼科医長、さらに岡山医学専門学校教授(眼科)となる。1902年(明治35年)上京して井上眼科医院を東京丸の内内幸町に開業。上京後は鴎外との交友が復活、また宮中関係の歌人と近くなり1907年に御歌所寄人(おうたどころよりうど)となる。1916年から『明治天皇御集』(宮内省・文部省)の編纂に従事。1920年(大正9年)、宮中顧問官となった。1926年(大正15年)には還暦を迎えたことを期に医業を畳み、歌と国文学研究に専心していった。1938年(昭和13年)、貴族院勅選議員となった。兄弟はそれぞれがそれぞれの分野で業績を残し、世に「松岡五兄弟」としてつとに有名。1992年(平成4年)秋に、姫路文学館で『松岡五兄弟  松岡鼎・井上通泰・柳田国男・松岡静雄・松岡映丘』展が催された。UP





宮武外骨

宮武 外骨(みやたけがいこつ、慶応3年1月18日(1867年2月22日) - 昭和30年(1955年)7月28日)明治~昭和期のジャーナリスト、新聞史研究家、江戸明治期の世相風俗研究家。幼名は亀四郎。
現在の香川県綾歌郡綾川町小野に庄屋宮武家の四男として生まれた。反骨精神に富み、自ら新聞、雑誌を刊行して政治や権力批判を行ったためたびたび発禁、差し止め処分を受けた。外骨の出版した刊行物の中でももっとも有名な『滑稽新聞』は、明治34年に大阪で創刊され、記事の大半を自ら書いた。寄稿は編集者によるものを含め、ほとんどがペンネーム。時事批評だけでなく下世話な世相の話題まで扱い、現代の週刊誌に相当する内容で、外骨の記事は巧みに仕込まれた毒とパロディー精神に富み、さらに挿絵も腕の良い職人の手になるもので、一般大衆に人気を博した。最盛期の部数は8万部。この時代の雑誌としてはトップクラスの売れ行きだった。UP





豊田佐吉

豊田 佐吉(とよだ さきち、1867年3月19日(慶応3年2月14日) - 1930年(昭和5年)10月30日)は、日本の実業家、発明家。豊田自動織機の創業者。
1890年に東京での内国勧業博覧会にて外国製織機の設計を参考にして「豊田式木製人力織機」を発明。この「木製人力織機」はコストの安い木を多用して当時まだまだ高価だった金属類は必要最小限に抑えた為、当時主流だった外国産の機械より一桁安い価格で瞬く間にシェアを広げた(この無駄を抑える発想は後の『トヨタ生産方式』の原点となる)。1902年に豊田商会を設立、今日のトヨタグループの礎を築く。UP





伊東忠太

伊東 忠太(いとう ちゅうた 慶応3年10月26日(1867年11月21日) - 昭和29年(1954年)4月7日) は、山形県米沢市出身の明治~昭和期の建築家、建築史家。号は紅雲。位階・勲等・学位・称号は、正三位・勲二等瑞宝章・工学博士・東京帝国大学名誉教授・米沢市名誉市民・第一号。早稲田大学教授。1943年には建築界ではじめて文化勲章を受章。
法隆寺が日本最古の寺院建築であることを学問的に示し、日本建築史を創始した。また「建築進化論」を唱え、それを実践するように独特の様式を持った作品を残した。平安神宮の設計、明治神宮や築地本願寺、阪急百貨店梅田本店の旧ドーム状コンコースなどの作品を残した。
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関野貞

関野 貞(せきの ただし、慶応3年12月15日(1868年1月9日) - 昭和10年(1935年)7月29日)は、日本の建築史家、東大教授。文化財の保存に努めたことで知られる。高田藩士の家に生まれる。東京帝国大学工部大学造家学科(建築学科)を卒業。卒業論文は平等院の研究であった。辰野金吾の指揮下に日本銀行の工事に参加する。古社寺保存法が立案された1896年に伊東忠太の勧めで内務省技師、奈良県技師となり、奈良の古建築を調査し、建築年代を判定していった。1889年には平城宮址を発見し、1922年、国の史跡に指定された。1910年朝鮮総督府からの委嘱で、度々朝鮮半島や中国の古建築調査を行い、保護に努めた。『朝鮮古蹟図譜』により、フランス学士院からスタニスラス・ジュリアン賞を受賞。1906年清国に派遣され、中国建築の研究にも手を染める。1929年東方文化学院東京研究所で、「支那歴代帝王陵の研究」や「遼金時代の建築とその仏像」などを研究した。UP





鈴木米次郎

鈴木米次郎(すずき よねじろう、慶応4年2月6日(1868年2月28日)-昭和15年(1940年)12月28日)
東京出身の明治-昭和前期の音楽教育家。東京音楽学校の第一期生。母校の東京音楽学校(現東京芸大)や東京高師で教え、明治40年東洋音楽学校(現東京音大)を創立、校長となる。また点字の箏曲(そうきょく)記譜法を考案した。著作に「楽典大要」。唱歌に「赤穂浪士」など。
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小川芋銭

小川 芋銭(おがわ うせん、本名:小川茂吉、1868年3月11日(慶応4年2月18日) - 1938年(昭和13年)12月17日)は、明治から昭和初期にかけて活躍した日本画家である。
最初は洋画を学んでいたが、後に本格的な日本画を目指し、川端龍子らと珊瑚会を結成。横山大観に認められ、日本美術院同人となる。生涯のほとんどを茨城県の牛久沼のほとりで農業を営みながら暮らした。画業を続けられたのは、妻こうの理解と助力によるといわれている。画号の『芋銭』は、『自分の絵が芋を買う銭(金)になれば』という思いによるという。身近な働く農民の姿等を描き新聞等に発表したが、これには社会主義者の幸徳秋水の影響もあったと言われている。また、水辺の生き物や魑魅魍魎への関心も高く、特に河童の絵を多く残したことから『河童の芋銭』として知られている。芋銭はまた、絵筆を執る傍ら、『牛里』の号で俳人としても活発に活動した。長塚節や山村暮鳥、野口雨情などとも交流があった。
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内田魯庵

内田 魯庵(うちだ ろあん、慶応4年4月5日(1868年4月27日) - 1929年(昭和4年)6月29日)は、明治期の評論家、翻訳家、小説家。本名貢(みつぎ)。別号不知庵(ふちあん)、三文字屋金平(さんもんじやきんぴら)など。江戸下谷車坂六軒町(現東京都台東区)生まれ。画家の内田巌の父。
小説では知識人の内面の空白や葛藤をリアルに描いた『くれの廿八日』や社会各層の矛盾を風刺的に描いた『社会百面相』が刊行され、社会小説の第一人者として評価される一方、1892年、『罪と罰』(前半部分)の翻訳を刊行し翻訳家としてデビュー(英語からの重訳)。以後ヴォルテール、アンデルセン、ディケンズ、デュマ、ゾラ、モーパッサン、シェンキェヴィッチ、ワイルドなどの翻訳を発表した。トルストイ『復活』の翻訳(1905年)も有名。1901年、書籍部門の顧問として丸善に入社。丸善の顧問を務めるうちに蔵書や書誌・図書館・出版事情といった文壇以外の世界に関心を拡げることになった。本格的な芭蕉研究から、他愛もない玩具の話にいたるテーマの多彩さは魯庵の意義の一部であり、その思想の鉱脈はいまだに語り尽くされていない。UP




瀬戸口藤吉

瀬戸口藤吉(せとぐちとうきち、1868年6月28日(慶応4年5月10日) - 1941年(昭和16年)11月8日)は、鹿児島県出身の音楽家で海軍軍楽師。「行進曲の父」と称せられる。軍艦行進曲などの作曲家として知られる。
1882年、海軍の第2回軍楽公募生に応募で採用された。1904年に海軍軍楽長(軍楽隊長)に昇進し、「海軍軍楽隊への弦楽の導入」「東京への軍楽隊の分遣隊設置」「海軍軍歌の整備編纂」に尽力した。1917年に海軍軍楽特務少尉を定年退官して後は東京帝国大学やアマチュア・オーケストラで指導するなど、事実上楽壇の表舞台からは退いたが、1937年に愛国行進曲の作曲公募第1位となり再び脚光を浴びることになった。鹿児島県垂水市では彼の業績を讃えるために、毎年「瀬戸口藤吉翁記念行進曲コンクール」が催されている。UP





大森房吉

大森 房吉(おおもり ふさきち、1868年10月30日(明治元年9月15日) - 1923年11月18日)は福井県出身の地震学者。東京帝国大学理科大学(現東京大学)物理学科卒業。「日本地震学の父」とも呼ばれている。
1898年に世界初の連続記録可能な地震計、大森式地震計を開発。1899年に初期微動継続時間から震源までの距離を決定できることを示す(震源距離の)大森公式を発表した。1923年に汎太平洋学術会議出席のためオーストラリアに出発したが、その留守中に関東大震災が発生。シドニーのリバビュー天文台で、この地震が地震計に記録されているのを見、日本で発生した大地震であることを知り、急遽帰国の途についた大森だったが、途上の船上で脳腫瘍のために倒れ、そのまま帰国後に死去した。UP




徳富蘆花

徳冨 蘆花(とくとみ ろか、明治元年10月25日(1868年12月8日) - 昭和2年(1927年)9月18日)熊本生まれの小説家。徳富蘇峰は実兄。
同志社英学校に学び洗礼を受ける。同志社を中退後、兄徳富蘇峰の経営する民友社に入る。民友社の国民新聞に連載した「不如帰」は明治屈指のベストセラーとなり、それに続くエッセイ「自然と人生」などにより一躍人気作家に。39年(1906)エルサレム巡礼に出、トルストイも訪問。40年(1907)東京現世田谷区へ転居、半農生活に入る。国家主義的傾向を強める兄蘇峰とは長らく絶交状態であったが、昭和2年(1927)伊香保で療養中に和解、蘆花は「後のことは頼む」と言い残してその翌日に死去した。UP




北村透谷

北村 透谷(きたむら とうこく、1868年12月29日(明治元年11月16日) - 1894年(明治27年)5月16日は、明治期に近代的な文芸評論をおこなった人物。詩人。島崎藤村らに大きな影響を与えた。UP





丘 浅次郎

丘 浅次郎(おか あさじろう、明治元年11月18日(1868年12月31日) - 昭和19年(1944年)5月2日)は、動物学者。遠江国掛塚(現・静岡県磐田市掛塚)生まれ。帝国大学理科大学選科修了。ドイツ留学ののち、山口高等学校教授、1897年高等師範学校教授、1929年東京文理科大学講師。
蛭、ホヤなどの分類、発生について研究し、カンテンコケムシ Asajirella gelatinosa Oka, 1891などに学名をつけている。また、進化論の啓蒙活動に貢献し、旧制中学の生物学教科書を多く執筆した。1925年帝国学士院会員、日本動物学会会頭。『丘浅次郎著作集』全5巻がある。東京文理科大学が母体の一つとなった筑波大学の生物学類標本室には、ホヤ類の正基準標本が20点ほど所蔵されている。丘は国際補助語にも関心を寄せており、ヴォラピュクを学んだほか、ラテン語などを基にした「Zilengo」(ズィレンゴ)という人工言語を考案していた(1889年頃と推定。ウィキペディアのエスペラント版であるVikipedio{ヴィキペディーオ}には、この言語に関する説明がある。なお、この"Zilengo"という言語名は、この言語で「我々の言語」の意である)。その後、ドイツ留学中の1891年にエスペラント(発表は1887年)を知り、(アッサリと宗旨替えして)日本人初のエスペランティストとなった。そして、1906年に黒板勝美らと共に日本エスペラント協会(現在の日本エスペラント学会の前身)を設立した。UP





田中頼璋

田中頼璋(たなか らいしょう) 1868年(慶応2年)~1940年(昭和15年) 明治から昭和初期にかけて活躍した島根県出身の日本画家。17歳で画家を志し、森寛斎について画技をみがく。32歳のとき上京し日本画の大家・川端玉章画伯に師事し、主に山水画を得意としトラを描いた傑作で知られる。日展の前身である帝国美術院展覧会委員を務めるなどして活躍したが、関東大震災を機に広島に居を移し後進の育成に努めた。UP




大町桂月

大町 桂月(おおまち けいげつ、1869年3月6日(明治2年1月24日)- 1925年(大正14年)6月10日)は、日本の高知市出身の詩人、歌人、随筆家、評論家。雅号の桂浜月下漁郎はよさこい節にも唄われる月の名所桂浜に因み、桂月はそれを縮めたもの。東京帝国大学国文科卒。和漢混在の独特な美文の紀行文は広く読まれた。終生酒と旅を愛し、酒仙とも山水開眼の士とも称された。北海道各地を旅行してその魅力を紀行文で紹介、北海道層雲峡の名付け親でもある。大雪山系の黒岳の近くには、彼の名にちなんだ桂月岳という山がある。故郷の桂浜には「見よや見よ みな月のみのかつら浜 海のおもよりいづる月かげ」の歌の碑がある。

1904年(明治37年)9月に『明星』に発表された与謝野晶子の「きみ死にたまうことなかれ」に対して、「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」と『太陽』誌上で非難している。これに対して与謝野晶子は『明星』11月号で「ひらきぶみ」を発表し、「歌はまことの心を歌うもの」と弁明している。UP




森 小弁

森 小弁 (もり こべん、明治2年(1869年)10月15日-昭和20年(1945年))は、土佐(現在の高知県高知市仁井田)出身の実業家。主に南洋諸島のトラック諸島(現在のミクロネシア連邦チューク州チューク諸島)で活躍し、現地の女性と結婚したあと水曜島(現在のトル島)の大酋長も務めた人物。また、歌謡曲の『酋長の娘』や島田啓三の絵物語『冒険ダン吉』(講談社の雑誌『少年倶楽部』に連載された)のモデルとされている(ただし、『冒険ダン吉』に関しては、島田のフィクションと言われている)。現在のミクロネシア連邦大統領のマニー・モリはひ孫にあたる。UP





上田万秋

上田万秋(うえだ まんしゅう、1869年-1952年)日本画家。京都生。名は巳之太郎、別号に柳外。京都府画学校卒。今尾景年に師事する。国内外の博覧会等で受賞を重ね、官展で活躍した。のち日本自由画壇結成に参加、同人となる。卓抜した筆技で花鳥画を得意とした。昭和27年(1952)歿、83才。 出典(株)思文閣

上記のほか、下記の解説もあり。
洋画家。熊本県生。岡田三郎助に師事。東美校卒業後、猪熊弦一郎、荻須高徳らと上杜会を結成。主線美術協会を創立、創元会会員となり、のち立軌会を結成。日本国際美術展、現代日本美術展等に出品、受賞を重ねる。日展特選、芸術選奨文部大臣賞受賞。日本芸術院会員、国際形象展同人。文化功労者。文化勲章受章。東京芸大教授。平成9年(1997)歿、97才。 出典(株)思文閣UP




杉田直

杉田直(すぎた なお、1869年-1960年) 宮崎県出身の眼科医、俳人(俳号は作郎)。
ほとんど独力で医術開業試験に合格、東京 大学眼科医局に身を置くまでの歩みには、並々ならぬ努力の積み重ねが見られる。秋月種樹や高木兼寛に激励され、“日本眼科の父”と称された河本重次郎に師 事、眼科医としての歩むべき道を定めた。
1897(明治30)年、わが国で始めて視器を用いた「帝国大学学生の視力」(『日本眼科学会雑誌』第2巻)を発表、医学界の注目を集めた。この間、俳句結社「秋声会」同人となり、戸川残花・巌谷小波・尾崎紅葉らと親交、のち子規門の「ホトトギス」に入り、内藤鳴雪・夏目漱石・高浜虚子らと交流。
 1898(明治31)年帰郷、眼科医院を設立、34歳で宮崎郡医師会長、37歳で宮崎県医師会長。県医師会館の建設をはじめ、『宮崎県医師会50年史』を編さんするなど、県医学界の発展に貢献した。UP
~「みやざきの101人」HPより~




本多光太郎

本多光太郎 明治3年2月23日(1870年3月24日) - 昭和29年(1954年)2月12日)は、愛知県碧海郡矢作町(現岡崎市)生まれの物理学者。電磁研初代理事長。
東京帝国大学理科大学物理学科を経て、ドイツおよびイギリス留学後、1911年に東北帝国大学教授となった。1931年に同大学総長に就任。1937年に第1回文化勲章を受章し、1949年には東京理科大学学長となっている。
本多は1917年にKS鋼を、1934年に新KS鋼を発明しており、その何れもが当時の世界最強の永久磁石であった。無類の実験好きとして知られる。本多が輩出した研究者たちは「本多スクール」の出身者ともいわれ、研究者としてだけでなく教育者としてもその才能を発揮していたといえよう。UP





西田幾多郎

西田 幾多郎(にしだ きたろう、明治3年4月19日(1870年5月19日)- 1945年(昭和20年)6月7日)は、日本を代表する哲学者。京都大学教授。京都学派の創始者。UP




今村明恒

今村 明恒(いまむら あきつね、1870年6月14日(明治3年5月16日) - 1948年1月1日)は鹿児島県出身の地震学者。東京帝国大学理科大学(現・東京大学)物理学科卒業。大学院では地震学講座に入り、そのまま講座助教授、講座教授となる。東大を定年退官した後も資財を投じて地震の研究を続けた。
1899年に津波は海底の地殻変動を原因とする説(発表当時には殆ど受け入れられなかった。)を提唱。1911年には今村式強震計を開発した。関東大震災の地震予知の功労者として「地震の神様」と称えられたが、1905年発表当時には「ホラ吹きの今村」と中傷された。
1933年に三陸沖地震が発生した際には、その復興の際に津波被害を防ぐための住民の高所移転を提案。また、津波被害を防ぐには小学校時代からの教育が重要と考えて『稲むらの火』の国定教科書への収載を訴えた。それが実現した後、1940年に『『稲むらの火』の教え方について』を著して、その教え方についても詳しく指導している。
1944年に東南海地震が発生した際には、掛川-御前崎の水準測量を行なっていたが、この時、地震前日から御前崎が隆起する動きが確認できた。これが現在の東海地震の発生直前の地震予知が可能であるという根拠とされている。なお次男の今村久も地震学者である。UP





鈴木大拙

鈴木 大拙(すずき だいせつ、本名:貞太郎〔ていたろう〕、英字:D.T.Suzuki、1870年11月11日(明治3年10月18日) - 1966年7月12日) は、禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に広くしらしめた仏教学者(文学博士)である。大拙は居士号。石川県金沢市本多町に、旧金沢藩藩医の四男として生まれる。1959年日本学士院会員、文化勲章。
100冊ある著書のうち、23冊が英語で書かれている。梅原猛曰く、「近代日本最大の仏教者」。同郷の西田幾多郎、山本良吉、藤岡作太郎とは石川県立専門学校(後の第四高等学校)以来の友人であり、鈴木、西田、藤岡の三人は加賀の三太郎と称された。UP





藤本清兵衛

藤本清兵衛(ふじもと せいべえ、1870年-1949年)は和歌山県出身の実業家。
1902年に個人商店「藤本ビルブローカー」を大阪に開業。1907年には銀行営業の認可を受け、「株式会社藤本ビルブローカー銀行」を開業した。ブルブローカー業務の草分けで、企業の資金調達に貢献した。1932年に銀行業を廃止し、証券会社となり、大和證券グループの前身となった。
*「「ビルブローカー銀行」とは、当時の6種別(中央銀行、特殊銀行、都市銀行、地方銀行、貯蓄銀行、ビルブローカー銀行)のひとつであり、コール取引を行う銀行である。UP




堺 利彦

堺 利彦(さかい としひこ、1871年1月15日(明治3年11月25日) - 1933年1月23日)は、福岡県出身の社会主義者・思想家・作家・小説家。号は枯川、別名は、貝塚渋六。
中学を首席で卒業。第一高等中学校に入学するも学費滞納により一高から除籍処分を受ける。新聞記者、教員、小説家などを経て社会主義運動を開始。幸徳秋水との共訳で日本における最初の『共産党宣言』を翻訳した。数多くの翻訳を通じて、欧米の社会主義思想、社会運動やロシア革命の動向、ユートピア文学をはじめとする西洋文学の紹介につとめた。婦人運動家の近藤真柄は長女。UP





志賀潔紙で修繕した丸メガネ

志賀 潔(しが きよし、1871年2月7日(明治3年12月18日) - 1957年1月25日)は、日本の医学者・細菌学者。赤痢菌の発見者として知られる。

1896年東京医科大学(現在の東大医学部)を卒業。官立伝染病研究所(所長:北里柴三郎)に入り、細菌学と免疫学に従事、折から東京で赤痢が流行し、患者の糞便中から赤痢菌を発見。コッホが委員長を務めた赤痢菌調査委員会は、赤痢菌を一名「志賀‐クルーゼ菌」と命名。現在、赤痢菌の学名は発見者志賀にちなんでShigella dysenteriaeという。

慶應義塾大学医学部教授、朝鮮総督府医院長、京城医学専門学校長、京城帝国大学総長を歴任。文化勲章受章者。位階勲等学位は正三位勲一等医学博士。称号は仙台市名誉市民。赤痢菌の発見とともに化学療法を研究し、明治時代の日本の近代化のなかで世界に通用する科学研究の成果を成し遂げた先駆者と評される。清貧を貫いた人柄であり、晩年は数々の名誉を得ながらも貧困のなかに暮らし、家の障子を新聞紙で張り、つるを紙で修繕した眼鏡を掛けた肖像が土門拳の写真集『風貌』に残されている。
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喜田貞吉

喜田 貞吉(きた さだきち、1871年7月11日(明治4年5月24日) - 1939年7月3日)は、徳島県出身の歴史学者、文学博士。東京帝国大学文科大学卒業後、同大学院に進学、その後同大学で講師を務め、1909年に「平城京の研究・法隆寺再建論争」により東京帝国大学から文学博士の称号を得た。文部省で国定教科書の編纂にも従事したが、小学校の歴史教科書に南北朝期の北朝・南朝を並べて記述していたため、1911年、南朝を正統とする立場から非難され、休職処分となった(「南北朝正閏問題」)。京都帝国大学教授を経て、東北帝国大学国史学研究室の講師となり、同研究室草創の基礎を築いた。独自の日本民族成立論を展開し、日本民族の形成史について歴史学・考古学の立場から多くの仮説を提示した。「日鮮両民族同源論」を提出し、結果的に日韓併合(1910年)を歴史的に正当化したと批判される。法隆寺再建・非再建論争では、再建論の論陣を張った。これは後に正しいことが証明された。被差別部落研究の先駆者としても評価されている。UP





柴山五郎作

柴山五郎作しばやま ごろうさく、明治4年8月11日~大正2年3月6日 (1871~1913))
栃木生まれ。伝染病学者。明治31年(1898)東京帝国大学医科大学を卒業し、伝染病研究所助手となり、北里博士の下で細菌学の研究に従事。その後、内務省臨時検疫事務官、警視庁技師などに任じられ、40年(1907)医学博士の学位を受ける。大正2年(1913)3月6日、伝染病研究所で研究中に病毒のため殉職。
出典:近代日本人の肖像





本山白雲
本山白雲(もとやま はくうん、1871年(明治4年9月1日)-1952年(昭和27年2月18日)、は高知県出身の彫刻家。高村光雲に師事し、のち長沼守敬(もりよし)に洋風彫塑をまなぶ。「伊藤博文」「山県有朋」「坂本竜馬」など維新の元勲たちの銅像を次々と製作し、当時日本での銅像製作の第一人者となった。東京美術学校(現東京芸大)卒。本名は辰吉。UP




田山花袋

田山 花袋(たやま かたい、1872年1月22日(明治4年12月13日) - 1930年(昭和5年)5月13日)は、日本の小説家。本名、録弥(ろくや)。群馬県(当時は栃木県)生れ。
尾崎紅葉のもとで修行したが、後に国木田独歩、柳田国男らと交わる。「蒲団」「田舎教師」などの自然主義派の作品を発表し、その代表的な作家の一人。紀行文にも優れたものがある。UP





徳田 秋声
徳田 秋声(徳田 秋聲、とくだ しゅうせい、男性、1872年2月1日(明治4年12月23日) - 1943年(昭和18年)11月18日)は、石川県金沢市生まれの小説家である。本名は末雄。
小学生時代(現在の金沢市立馬場小学校)、一学年下に泉鏡花がいた。第四高等中学校に入学した翌年、上級生から小説家になる事を勧められ志した。明治28年(1895年)尾崎紅葉の門下に入り、明治29年第1作「藪かうじ」を発表。泉鏡花らとともに紅葉門下の四天王と称された。「新世帯(あらじょたい)」「黴(かび)」「あらくれ」などで自然主義文学の代表的作家となる。晩年には「仮装人物」があり、「縮図」は戦時下で当局から干渉をうけて、作品を中絶させた。続きは書かれずに、戦争中の昭和18年(1943年)に死去した。芸術院会員。UP




島崎藤村

島崎 藤村(しまざき とうそん、1872年3月25日-1943年8月22日)は、日本の詩人、小説家。木曾の馬籠 (現在の岐阜県中津川市)生れ。明治学院卒。『文學界』に参加し、浪漫派詩人として『若菜集』などを刊行。さらに小説に転じ、『破戒』『春』などで代表的な自然主義作家となった。ほかの作品に、日本自然主義文学の到達点とされる『家』、姪との近親相姦を告白した『新生』、父をモデルとした歴史小説『夜明け前』など。UP




山室軍平

山室 軍平(やまむろ ぐんぺい、1872年9月1日(明治5年7月29日戸籍上は8月20日) - 1940年(昭和15年)3月13日)は岡山県出身の宗教家。説教者。日本人初の救世軍士官。石井十次、アリス・ペティ・アダムス、留岡幸助とともに「岡山四聖人」と呼ばれる。1895年(明治28年)より石井の勧めで救世軍に参加し、パンフレット『鬨の声』を刊行するなど大いに働き、日本最初の士官(伝道者)となる。後に東洋で最初の中将となり、日本軍国司令官となる。終生に渡り社会福祉事業、公娼廃止運動(廃娼運動)、純潔運動に身を捧げた。1924年(大正13年)に勲六等瑞宝章を受章。1937年(昭和12年)には救世軍より「創立者賞」を受ける。UP





岡本綺堂

岡本綺堂 (おかもと きどう, 明治5年10月15日(1872年11月15日) - 昭和14年(1939年)3月1日) は、小説家、劇作家。本名は敬二、別号に狂綺堂、鬼菫。東京高輪生まれ。24年間の記者生活の後は作家活動に専念し、新聞連載の長編小説や、探偵物、スリラー物を多く執筆。生涯に196篇の戯曲を残した。1916年、シャーロック・ホームズに影響を受け、日本最初の岡っ引捕り物小説「半七捕物帳」の執筆を開始、江戸情緒溢れる描写で長く人気を得た。怪奇ものでは、中国志怪小説の翻案や、『世界怪談名作集』『支那怪奇小説集』などの編訳もある。幼少期からの歌舞伎鑑賞を期した「ランプの下で」は明治期歌舞伎の貴重な資料となっている。死後、元書生で養子の岡本経一が綺堂の作品の保存を目的として出版社「青蛙房」を創立。現社長の岡本修一は綺堂の孫にあたる。UP





与謝野鉄幹

与謝野 鉄幹(よさの てっかん、1873年(明治6年)2月26日 - 1935年(昭和10年)3月26日)は、歌人。与謝野晶子の夫。後に、慶應義塾大学教授。
晶子の類まれな才能を見ぬいた鉄幹は、晶子の歌集『みだれ髪』作成をプロデュースし、晶子と3度目の再婚。六男六女の子宝に恵まれた。しかし、結婚後の鉄幹は極度の不振に陥る。栄光に包まれる妻の影で苦悩に喘いだ。1915年には、第11回総選挙に故郷の京都市選挙区から無所属で出馬したが、落選した。1935年(昭和10年)気管支カタルがもとで死去。晶子は「筆硯煙草を子等は棺に入る名のりがたかり我れを愛できと」という悲痛な追悼の歌を捧げた。次男与謝野秀は外交官として活躍。秀の長男が衆議院議員与謝野馨である。UP




安宅弥吉

安宅 弥吉(あたか やきち、1873年4月25日 - 1949年2月5日)は石川県金沢市金石生まれの実業家。安宅産業や学校法人甲南女子学園の創設者。元大阪商工会議所会頭。鈴木大拙のパトロン的存在としても知られる。
長男の安宅英一(神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業)は後に安宅産業会長となり、次男の安宅重雄(京都帝国大学文学部哲学科卒業)も安宅産業社長となった。娘の安宅登美子は1925年・1926年の全日本テニス選手権女子ダブルス優勝者になったテニス選手である。登美子と結婚した娘婿の長谷川周重は、後に住友化学工業の社長となった。
弥吉の創業した安宅産業は三菱商事、三井物産、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、ニチメン、兼松江商に次ぐほどまで成長し、「10大総合商社の一角」とされていたが、弥吉の死後、同族経営の弊害が現れるなどし、1977年には安宅産業破綻として伊藤忠商事及びメインバンクの住友銀行や協和銀行の主導で伊藤忠商事との間で吸収合併がなされ、消滅することになった。UP




美濃部達吉

美濃部 達吉(みのべ たつきち、1873年5月7日- 1948年5月23日)は、日本の男性憲法学者。
勲一等旭日大綬章(1948年)。UP



桐生 悠々

桐生 悠々(きりゅう ゆうゆう、1873年5月20日 - 1941年9月10日)は、石川県金沢市出身のジャーナリスト、文明評論家。本名は政次(まさじ)。
旧制第四高等学校では小学校以来の同級生徳田秋声と親交を深め、小説家を志して共に退学・上京するなどもあったが失敗し帰郷、1895年(明治28年)にあらためて東京法科大学政治学科に入学、穂積八束、一木喜徳郎に学ぶ。明治35年下野新聞主筆としてジャーナリストの道を歩みだし、その後いくつかの新聞社を転々とする。明治末から昭和初期にかけて反権力・反軍的な言論をくりひろげ、数多くの筆禍事件を引起した。特に、信濃毎日新聞の主筆として書いた「都市空襲を受けるならば日本の敗北は必至である」という、『関東防空大演習を嗤(わら)う』と題した社説で知られる。




津田左右吉

津田 左右吉(つだ そうきち、明治6年(1873年)10月3日-昭和36年(1961年)12月4日)は、岐阜県美濃加茂市下米田町出身の歴史学者。
日本古代史研究の第一人者として知られる。古事記や日本書紀、特に神話関係の部分は後世の潤色が著しいとして厳格に文献批判を行った。神話(皇国史観)を否定する「津田史観」は皇国史観学派と対立した。また、実証主義的史学により神話を否定するも天皇制については擁護論を唱えマルクス史観派からは攻撃された。UP




泉鏡花

泉 鏡花(いずみ きょうか、1873年11月4日 - 1939年9月7日)は明治後期から昭和初期にかけて活躍した小説家である。金沢市下新町生れ。
尾崎紅葉に師事し、『夜行巡査』『外科室』で評価を得、『高野聖』で人気作家になる。江戸文芸の影響を深くうけた怪奇趣味と特有のロマンチズムで知られる。作『婦系図』『歌行燈』『夜叉ヶ池』など。
尾崎紅葉の『色懺悔』を読んで大いに衝撃を受け、文学に志すようになる。鏡花にとっての紅葉はもっとも敬愛する小説家、文学上の師であると同時に、無名時代の自分を書生として養ってくれた恩人であり、鏡花は終生このことを徳として旧師を慕いつづけた。UP





川合玉堂

川合 玉堂(かわい ぎょくどう、本名:川合 芳三郎(かわい よしさぶろう)、1873年11月24日 - 1957年6月30日)は、明治から昭和にかけて活躍した日本画家。

愛知県葉栗郡外割田村(現在の一宮市木曽川町)に、筆墨紙商の長男として生まれる。
12歳頃より絵に親しみ、17歳で「玉堂」と号する。この際「春渓群猿図」「秋渓群鹿図」は第3回内国勧業博覧会に入選。23歳のとき上京し橋本雅邦に師事する。岡倉天心、雅邦、横山大観らの創立した日本美術院(1898年)に参加、1900年頃からは私塾「長流画塾」を主宰、1907年には第1回文部省美術展覧会(文展)審査員に任命され、また1915年からは東京美術学校日本画科教授となり、日本画壇の中心的存在の一人となる。1940年には文化勲章を受章。

戦時中の1944年に、東京都西多摩郡三田村御岳(現・青梅市)に疎開、住居を「偶庵」、画室を「随軒」と称し、同地で1957年没した。現在、同地には玉堂美術館がある。日本の四季の山河と、そこで生きる人間や動物の姿を美しい墨線と彩色で描くことを得意とした。
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朝河貫一

朝河 貫一(あさかわ かんいち、1873年(明治6年)12月20日 - 1948年(昭和23年)8月10日)は、福島県二本松市出身の日本が生んだ世界的歴史学者。古代から近代に至る日本法制史、日本とヨーロッパの封建制度比較研究の第一人者として欧米で評価され、日本人初のイェール大学教授となった。2007年10月にはイェール大学講師就任100年を記念し、業績を讃え、セイブルック・カレッジ構内に「朝河貫一庭園」が造られた

福島県尋常中学校を首席卒業、東京専門学校(現早稲田大学)に編入学し首席で卒業。同校在学中に坪内逍遙等の教えを受け洗礼を受ける。1895年、大西祝、大隈重信 、徳富蘇峰、勝海舟らに渡航費用の援助を受けてアメリカへ渡り、ダートマス大学、イェール大学大学院を卒業。イェール大学時代に知りあったミリアム・J・キャメロン・ディングウォールと結婚。(8年後死去、以来独身)イェール大学図書館および米国議会図書館からの依頼で、日本関係図書の収集をした。また、「入来文書」(鹿児島県旧入来町の入来院家に伝わり鎌倉~江戸時代にわたる古文書群)の研究が有名で、これをまとめた英語の著書が”The Documents of Iriki” 『入来文書』である。日本語の著書としては『日本の禍機』がある。
また、『日露衝突』を刊行し日露戦争における日本の正義を英米国民に説いたり、日米開戦の回避のために、フランクリン・ルーズベルト大統領から天皇宛の親書を送るよう働きかけを行ったりもした。墓はコネチカット州ニューヘヴンのグローヴストリート墓地と福島県二本松市の金色(かないろ)墓地にある。UP




河東碧悟桐

河東碧悟桐(かわひがしへきごとう 明治6(1873)年-昭和12(1937)年 愛媛県松山市出身の俳人。本名秉(へい)五郎。
明治20年伊予尋常中学に入学。虚子とは同級。明治22年帰省した子規からベース・ボールを教わったことがきっかけで、俳句にたずさわることになる。子規の死後、碧悟桐は「俳句の新傾向」を主張し、定型や季題にとらわれない自由律の句をつくるようになり、後に荻原井泉水、種田山頭火らに受け継がれていった。碧悟桐の新傾向運動に対し、虚子は五・七・五の定型調や季題といった伝統を守る立場を主張し、虚子を中心とする「ホトトギス派」は、近代俳句の中心勢力として発展していった。俳句では対立した二人であったが、その友情は終生変わる事はなく、碧悟桐の死に際して、虚子は「碧梧桐とはよく親しみよく争ひたり」と述べ、次の句を詠んだ。

たとふれば こまのはぢける 如くなり

昭和8年還暦を機に俳界から引退した。昭和12年没。享年65歳。UP





河井 醉茗
河井 醉茗(かわい すいめい、1874年5月7日 - 1965年1月17日)詩人。大阪府堺市出身
「文庫」の記者として詩欄を担当し、多くの詩人を育て、昭和期において詩の発展に尽力した。雑誌「女性時代」「詩人」を刊行するなどして口語自由詩を提唱した。詩集に『無弦弓』『塔影』などがある。芸術院会員、日本詩人クラブ、日本文芸家協会名誉会員。1965年1月17日、急性心臓衰弱のため没した。UP




本因坊秀哉
本因坊 秀哉(ほんいんぼう しゅうさい、1874年6月24日- 1940年1月18日)は、明治から昭和にかけての囲碁の棋士。東京都出身。本名は田村保寿(やすひさ)。名人。家元本因坊家の21世で、終身名人制の最後の名人。法名は日温。引退後に本因坊の名跡を日本棋院に譲渡し、選手権制の本因坊戦創設に導いた。棋風は力戦に強く、「序盤に策あり」と言われた。2008年囲碁殿堂入り。UP




岡田武松

岡田 武松(おかだ たけまつ、1874年8月17日 - 1956年9月2日)は、千葉県東葛飾郡布佐町(現我孫子市)生まれの気象学者。東京帝国大学物理学科卒、ただちに中央気象台(現気象庁)に勤務。1905年には予報課長として日本海海戦当時の天気予報を出す。この予報(天気晴朗ナルモ浪高カルベシ)は、連合艦隊から大本営宛に打電された有名な電報「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃沈滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」の原案とされる。
1911年「梅雨論」で理学博士となり、1920年神戸海洋気象台の創設と同時に初代台長に就任。1923年には第4代中央気象台長となり、以後1941年までその職にあった。在任中は世界に先駆けた海上船舶の無線通信(1910年)や地震観測網の整備・海洋観測船の新造・全国気象官署の国営移管など、気象事業に発展に尽くした。
一方、研究者としても『気象学講話』『雨』『気象学』などの数多くの研究書・入門書の執筆や後進の育成にあたり、藤原咲平とともに藤原・岡田学派の総帥として活躍した。1924年イギリス王立気象学会よりサイモンズ金牌を贈られ、1931年帝国学士院会員。1949年文化勲章受章。フェーン現象に風炎の字を当てたことでも知られる。UP




小室翠雲

小室 翠雲(こむろ すいうん、1874年8月31日 - 1945年3月30日)は、群馬県出身の日本画家、南画家。本名は貞次郎(ていじろう)。父は日本画家・小室桂邨。文展開設にあたって正派同志会副委員長として文展新派に対抗した。文展審査員・帝展審査員をつとめた日本画の大家である。UP





早田文蔵
「博士の肖像」東京大学所蔵肖像画より

早田文藏(はやた ぶんぞう、1874年12月2日 - 1934年1月13日)は日本の植物学者。
新潟県加茂生まれ。1903年東京帝国大学を卒業。台湾総督府の依頼で台湾の植物を研究し、さらにインドシナでも調査を行った。その後東京帝大理学部教授および東大付属植物園長となった。彼はさらに「動的分類学」というものを提案した。これは恣意的に一部の形質のみに着目して系統樹を作成する従来の分類学に対し、多数の形質からネットワーク的分類図式を作ろうとしたものであり、後の表形分類学に似た考えであるが、理論的には大成されずに終わった。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/06/13 03:28 UTC 版)UP





高木貞治

高木 貞治(たかぎ ていじ、1875年4月21日 - 1960年2月28日)は、岐阜県出身の近世日本初の国際的数学者。
岐阜尋常中学校を経て第三高等中学校(現・京都大学)へ進学し、1894年に卒業。帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)数学科へ進み、卒業後にドイツへ3年間留学。ヒルベルトに師事し、多大な影響を受ける。代数的整数論の研究では類体論を確立し、クロネッカーの青春の夢を解決した。これは、その後の日本の数学の発展に影響を与えた点でも重要である。『解析概論』『初等整数論講義』『代数的整数論』など多くの定評ある数学教科書を著し、これらは、現在でも多くの学生や研究者に愛読されている。また『近世数学史談』などの数学の入門的啓蒙書も偉大な傑作となっている。UP





横田成年
「博士の肖像」東京大学所蔵肖像画より
横田成年(よこた せいねん) 1875-1953明治-昭和時代の航空学者,造船学者。
明治8年5月10日生まれ。43年母校東京帝大の教授。造船学を専攻したが,揺籃期のわが国の航空工学の研究基盤づくりにとりくむ。大正7年東京帝大航空研究所設立と同時に初代所長に就任,また新設の工学部航空学科主任教授を兼任した。昭和28年1月11日死去。77歳。京都出身。デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説 出典:講談社UP



柳田國男

柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8)7月31日 - 1962年(昭和37)8月8日)は、日本の民俗学を学問として構築した。農政学を学び、のち民俗学者となった。なお柳田の読みは「やなぎだ」ではなく「やなぎた」である。UP




結城素明

結城 素明(ゆうき そめい、1875年12月10日 - 1957年3月24日)は、日本の画家、日本芸術院会員。東京生まれ。本名・貞松。
1890年天真画塾で川端玉章に師事する。東京美術学校卒。1900年旡声会、1904年東京美術学校助教授、1916年金鈴社結成に加わる。文展に出品、1913年教授、1919年東京女子高等師範学校教授兼任、1923年から英独仏へ留学、1925年帝国美術院会員、1937年帝国芸術院会員、1944年従三位・勲二等瑞宝章受章、1945年東京美術学校名誉教授。
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栗本勇之助

栗本勇之助(くりもと ゆうのすけ、1875年 - 1948年)和歌山県出身の実業家。
弁護士の道を捨て、1909年(明治42年)栗本鐵工所の初代社長に就任。一大鉄管メーカーを築くとともに、大阪工業会の基礎を作った。現在は株式会社栗本鐵工所、略称クリモト。UP




高野辰之 岡野貞一
高野辰之(たかのたつゆき)
1876年4月13日(明治9年)-
1947年1月25日(昭和22年)
岡野貞一(おかのていいち)
1878年2月16日(明治11年)-
1941年12月29日(昭和16年)
高野と岡野は年齢も近く、コンビで多くの唱歌を作った。
その中の代表作として、今も知らぬ人がない「故郷」があるが、
他に、「春の小川」「春が来た」「おぼろ月夜」「紅葉」などの
名曲も、「高野辰之作詞、岡野貞一作曲」である。UP




杉浦 非水

杉浦 非水(すぎうら ひすい、1876年5月15日 - 1965年8月18日)は愛媛県松山市出身の近代日本のグラフィックデザイナー。本名、杉浦朝武(すぎうら つとむ) 東京美術学校(現東京藝術大学)日本画選科卒。日本のグラフィックデザインの黎明期より活動し、商業美術の先駆けであり現代日本のグラフィックデザインの礎を築いた人物の一人。
東京美術学校在学中に洋画家の黒田清輝より洋画や欧風図案の指導を受け、図案家へ転向する。雑誌の表紙などでモダンな欧風の図案(アール・ヌーボー)を発表し話題を集める。日本美術学校図案科講師、帝国美術学校(現武蔵野美術大学)図案科長などを経て、多摩帝国美術学校(現多摩美術大学)の創設に参加し、校長・図案科主任を兼任する。芸術院恩賜賞受賞、紫綬褒章受章、勲四等旭日小綬章受章。妻・杉浦翠子(1885-1960年)はアララギ派の歌人
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上中啓三と副腎ホルモン研究日記

上中啓三(うえなか けいぞう、1876(明治9)年6月29日‐1960(昭和35)年1月11日)
兵庫県出身の化学者。東京衛生試験所をへて、明治33年ニューヨークの高峰譲吉の助手となり、同年高峰とともに世界ではじめて副腎からホルモンの抽出、結晶化に成功し、アドレナリンと命名。帰国後三共にはいり、大正9年アドレナリンの国産化を指導した。

「アドレナリン」は高峰の死後、ジョンズ・ホプキンズ大学のJ.J.エイベルが「高峰の成果は自分の手法を盗んだもの」と主張し、エイベルの「エピネフリン」という名称が流通することになったが、1960年代に上中啓三の実験ノートの記述から、エイベルの主張がまったく的外れであっただけでなく、エイベルの方法(ベンゾイル化法)ではアドレナリンが結晶化しないことが判明。高峰の名誉回復と「アドレナリン」の再評価が成された。UP




中村天風

中村 天風(なかむら てんぷう、1876年7月30日 - 1968年12月1日)は日本初のヨーガ行者。天風会を創始し、心身統一法を広めた。東京都生まれ。福岡の親戚の下で剣術、居合を修行。現・修猷館高校では柔道部エースとして文武両道の活躍をするが、練習試合に惨敗した相手に闇討ちされ、その復讐を行う過程で相手を刺殺(ただし正当防衛は認められた)、修猷館を退学になる。その頃、玄洋社の頭山満の知遇を得、16歳の時、陸軍の軍事探偵となり、満州へ。軍事探偵として活躍し「人斬り天風」と呼ばれたという。日露戦争後30歳で、病気の為に弱くなった心を強くする方法を求め、欧米を転々とするも、納得のいく答えを得られず。1911年日本への帰国の途上、カイロにてインドのヨーガの聖人、カリアッパ師と邂逅。そのまま弟子入りし、ヒマラヤ第3の高峰、カンチェンジュンガのふもとで2年半修行を行う。1913年日本へ帰国途上、中国で孫文の第2次辛亥革命に「中華民国最高顧問」として協力。その謝礼として財産を得、東京実業貯蔵銀行頭取などを歴任、実業界で活躍する。1919年突然感じるところがあり、一切の社会的身分、財産を処分し、「統一哲医学会」を創設。政財界の実力者が数多く入会するようになり、発展。1940年「統一哲医学会」を「天風会」に改称。1962年国の認可により「財団法人天風会」となる。1968年12月1日死去。享年92。UP





中尾都山

中尾都山(なかお とざん、明治9(1876)年10月5日-昭和31(1956)年10月10日)は大阪出身の尺八奏者で作曲家。尺八を独習し虚無僧として修行した後、独自の演奏法を編み出し、明治29年(1896年)に都山流を創始した。昭和28年日本芸術院賞を受賞。作品に「木枯(こがらし)」「岩清水」「慷月調(こうげつちょう)」など。UP




橋本静水

橋本静水(はしもと せいすい、1876年-1943年)日本画家。広島県生。名は宗次郎、号は正素、のち静水。橋本雅邦に師事、その養子となる。第五回文展に「一休」を出品し入選。のち帝展で活躍する。院展同人。昭和18年(1943)歿、67才。出典(株)思文閣 UP




谷津直秀
「博士の肖像」東京大学所蔵肖像画より
谷津直秀(やつ なおひで)1877-1947明治-昭和時代前期の動物学者。
明治10年9月8日生まれ。コロンビア大で実験発生学をまなぶ。帰国後,母校東京帝大の助教授,慶大教授をへて大正11年東京帝大教授。動物学に実験的研究法を導入した。学士院会員,日本動物学会会頭。昭和22年10月2日死去。71歳。東京出身。著作に「動物分類表」など。UP
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説 出典:講談社




柴田 桂太
「博士の肖像」東京大学所蔵肖像画より

柴田 桂太(しばた けいた、1877年9月20日-1949年11月19日)は、日本の植物生理学者・生化学者・微生物化学者。薬学者柴田承桂の長男。弟に化学者柴田雄次がいる。東京府出身。
1899年に東京帝国大学理科大学植物学科を卒業後、第一高等学校・東北帝国大学などで教鞭をとった後、1910年に母校講師となり、直後にドイツに留学してヴィルヘルム・ペッファーに師事した。1912年に帰国して助教授となると、日本で最初の植物生理学・生化学の講座を開いた。1918年、植物界におけるフラボン体の研究で学士院恩賜賞を受賞、同年教授に昇進する。以後も植物の受精・胚発生のメカニズムの研究などに取り組み、田宮博と共同で行ったチトクロームに関する研究は世界水準に達するなど、日本の植物生理学・生化学の水準を一気に高めた。
1938年に東京帝国大学を定年退官後、岩田植物生理学研究所や徳川生物研究所などで研究を続け、1941年に資源科学研究所所長に就任した。UP





飛田周山

飛田周山(ひだしゅうざん、1877年(明治10年)-1945(昭和20年)) 日本画家
飛田周山(本名飛田正雄)は茨城県に生まれ、久保田米僊、竹内栖鳳、橋本雅邦に学んだ。健実な画風に特色を示し、文展、帝展等に出品し受賞を重ねた。大正9年の第2回帝展では展覧会委員、翌10年第3回帝展等に審査委員となった。日本美術院の研究会員であった周山は、郷里(現北茨城市磯原町)の関係から、明治36年、岡倉天心を福島県平地方、また五浦に案内し、これが日本美術院五浦移転の機縁となった。(茨城大学五浦美術文化研究所ホームページより抜粋)UP




中村春二
中村春二(中村彝(つね)画、1824年)。(成蹊学園蔵)

中村 春二(なかむら はるじ、1877年(明治10年) - 1924年(大正13年))は、明治末期~大正期の教育者にして成蹊学園の創立者。著名な国文学者で御歌所寄人もつとめた中村秋香の長男。
東京帝国大学文科大学国文科を卒業。人物教育を志し、今村銀行頭取今村繁三の支援を得て自宅に学生塾を開く。1907年(明治40年)、塾を「成蹊園」と名付ける。この頃、後の三菱財閥総帥岩崎小弥太が支援に加わる。1919年(大正8年)、初等教育・高等普通教育・専門教育を目的とする財団法人成蹊学園を設立。ところが、吉祥寺に8万坪の土地を得て、小学校・中学校・実業学校・実業専門学校の移転を進めていた矢先の1924年(大正13年)2月21日、志半ばにして急逝。48歳の若さだった。戦後の学制改革に伴い、旧制成蹊高等学校は改組、新制成蹊中学校・高等学校、新制成蹊大学が開設されることとなった。創立の地は現在、豊島区立元池袋史跡公園になっており、記念碑がたてられている。UP





今裕
写真は「広瀬院長の弘前ブログ」から拝借いたしました。

今 裕(こん ゆたか、1878年(明治11年)2月7日 - 1954年(昭和29年)2月5日)は、青森県弘前出身の医学者。医学博士。専門は病理学・細菌学。
1900年(明治33年)第二高等学校医学部(現東北大医学部)卒。東京慈恵会医学専門学校教授などをへて、1918年(大正7年)北海道帝國大学教授となり、1937年(昭和12年)北海道帝國大学総長となった。総長時代には欧米に三度留学する。北海道に医学部が無い事を憂い、北大医学部創設に尽力した。UP




有島武郎

有島 武郎(ありしま たけお、1878年 (明治11年)3月4日 - 1923年(大正12年)6月9日) は、日本の小説家。
学習院卒業後、農学者を志して札幌農学校に進学、キリスト教の洗礼を受ける。1903年渡米。帰国後、志賀直哉や武者小路実篤らとともに同人「白樺」に参加。1923年、軽井沢の別荘(浄月荘)で波多野秋子と心中した。
作品に、『カインの末裔』『或る女』や、評論『惜みなく愛は奪ふ』がある。UP





平賀譲

平賀 譲(ひらが ゆずる、1878年(明治11年)3月8日 - 1943年(昭和18年)2月17日)は、広島県出身の造船学者、軍艦設計者
1901年、東京帝国大学工学部造船学科を卒業、海軍造船中技士に任官。1905年、英国海軍大学校に留学し造船技術を学び、帰国後、戦艦「山城」の設計主任として艦船構造に新技術を採用、さらに「長門」「陸奥」など主力戦艦の基本設計を手がけ「軍艦の父」と呼ばれた。ワシントン条約による戦艦の建造中止後は、巡洋艦「夕張」「古鷹」「妙高」などを設計した。その後、海軍技術研究所に転じ、のち所長を務めた。1909年以降東京帝国大学教授として軍艦の設計・構造・艤装(ぎそう)などの講義を担当、1935年(昭和10)工学部長となった。1938年に総長となり、いわゆる平賀粛学を断行した。1928年高速度艦船に関する研究で学士院賞受賞。1934年「木板、船体模型の摩擦抵抗に関する実験的研究」に英国造船協会から外国人として初の金牌を贈られた。 UP





牧野英一

牧野 英一(まきの えいいち、1878年3月20日 - 1970年4月18日)は、岐阜県高山市出身の法学者。専門は刑事法。元東京帝国大学名誉教授、元東京商科大学(一橋大学の前身)名誉講師。従二位勲一等瑞宝章。
戦後、牧野の刑法理論は国家主義との親和性を批判される一方、旧派の団藤重光らの学説が新憲法の要請に基づく自由主義の立場に合致するものとして学界の絶大な支持を集め、牧野を含む新派は退潮に向かう。その一方、執行猶予の積極的活用などの牧野の主張は刑事制度に影響を色濃く残しており、その学説の歴史的・現代的意義は依然大きいといえる。著書に『日本刑法』(1916年)、『法理学』1巻・2巻上下(1949年 - 1952年)、『刑法総論』全訂版上下(1958年、1959年)、『刑法研究』(全20巻)(1918年 - 67年)がある。
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第二代 野村徳七

第二代野村 徳七(のむら とくしち、1878年8月7日 - 1945年1月15日)は、大阪府出身の実業家。両替商の野村徳七 (初代)の長男で野村財閥を築いた二代目(幼名は信之助)。

初代徳七の隠居に伴い、信之助が徳七を襲名し、弟の実三郎、元五郎らと野村商店を運営した。進歩的な営業方針と丁稚制度が一般的であった時代に、学校教育を受けた人材を積極的に採用し、日露戦争、第一次世界大戦の相場で大きな利益を得た。1918年(大正7年)に大阪野村銀行(後の大和銀行、現在のりそな銀行)を設立、証券部は1925年(大正14年)12月に野村證券として独立し翌年1月に営業を開始した。文化発展のために尽力したことでも知られ、日仏文化協会創立に関わったことからフランス政府から勲章を受章している。また自身も趣味人であり、茶道や能をたしなんだ。茶道具を中心とする古美術品の収集でも知られ、収集品は碧雲荘近くの野村美術館に収蔵されている。UP





川喜田 半泥子
千歳山の泥仏堂でろくろをひく半泥子
(昭和15年ごろ)(石水博物館提供)

川喜田 半泥子(かわきた はんでいし、明治11(1878)年11月6日-昭和38(1963)年10月26日)
三重県生まれの陶芸家・実業家。三重県津の素封家川喜田家の第16代にあたる。百五銀行頭取ほか数々の企業の要職をこなし、三重県議会議員、津市議会議員として、経済・政治など幅広い分野で活躍した。茶道、油彩画、日本画、俳句など、多彩な趣味を持ち、幅広い創作活動を展開。型にとらわれない、自由でおおらかな作風は、半泥子の人柄そのものといわれる。中でも、陶芸においては、趣味の域を越えた独自の世界を構築。昭和初期には、自宅のある千歳山に初めて小さな登り窯を築き、若き陶工らと交流し、研究と修練を重ねた。のちこの窯を津市郊外の広永に移し弟子を養成。半泥子という号は「半ば泥みて半ば泥まず」という意味があり、すべてに熱中する半泥子のことだから、家をつぶしてはならないと、すべて半ば泥むがよかろうと、禅の師が命名したという。老衰のため84歳で亡くなった。
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荒井寛方

荒井寛方(あらい かんぽう)1878~1945明治11年(1878)、氏家町の町絵師荒井藤吉の長男として生まれる。本名は寛十郎(かんじゅうろう)。明治32年(1899)上京して水野年方(としかた)に入門、歴史画を学び、明治35年(1902)国華社に入社。ここでの10年間に及ぶ仏画模写の仕事は寛方に大きな影響を与える。大正5年(1916)には詩聖タゴールに招かれてインドに渡り、アジャンターの壁画を模写。以後、それまでの古典研究とインドでの体験によって、独自の画風を形成。昭和15年(1940)には法隆寺金堂(こんどう)壁画の模写に従事するが、業なかばの昭和20年(1945)、福島県郡山駅で急逝した。UP




犬童 球渓

犬童 球渓(いんどう きゅうけい、1879年4月20日 - 1943年10月19日)は、熊本県人吉市出身の詩人、作詞家、教育者。東京音楽学校(現 東京芸術大学)卒業。本名は「犬童信蔵」というが、球磨川の渓谷に生まれたことから「球渓」というペンネームをつけた。1943年、人吉で自殺。新潟高等女学校赴任中に訳した『旅愁』、『故郷の廃家』が明治40年(1907年)の「中等教育唱歌集」に取り上げられ、現在でも広く歌われている。犬童球渓はこれらの代表作も含めて、生涯に250曲ほどの西洋歌曲の翻訳作詞を残した。彼の訳詞の特徴として、英語からの直訳を嫌い、日本語らしい表現にこだわった点などが挙げられる。犬童球渓の訳詞による『旅愁』はすっかり“日本の歌”として広く親しまれるようになり、原曲がアメリカ音楽であることが信じ難いほどになっている。
「更け行く秋の夜 旅の空の わびしき思いに一人悩む・・・」
*原曲はジョン・P・オードウェイによる“Dreaming of Home and Mother”(家と母を夢見て)という作品である。UP




滝廉太郎

滝 廉太郎(たき れんたろう、1879年8月24日 - 1903年6月29日)は、日本の音楽家・作曲家。
明治の西洋音楽黎明期における代表的な音楽家の一人である。UP




河上肇

河上 肇(かわかみ はじめ、1879年10月20日 - 1946年1月30日)経済学者
京都帝国大学でマルクス経済学の研究を行っていたが、教授の座を辞し、共産主義の実践活動に入る。日本共産党の党員となったため検挙され、獄中生活を送る。カール・マルクス『資本論』の翻訳(第一巻の一部のみ翻訳)やコミンテルン三十二年テーゼの翻訳のほか、ベストセラー小説『貧乏物語』で知られる。死後に刊行された『自叙伝』は広く読まれた。名文家であり、漢詩もよく知られている。UP





永井荷風

永井 荷風(ながい かふう、男性、1879年12月3日 - 1959年4月30日)は、小説家。耽美的な作風で明治から昭和にかけて活躍した。号は断腸亭主人、金阜山人。
アメリカ・フランス滞在中、ワーグナーやベルリオーズの作品に親しみ、帰国後『あめりか物語』『ふらんす物語』などの小説や評論で積極的に紹介。1938年5月には浅草で自作オペラ『葛飾情話』を発表するなど、クラシック音楽の日本への普及に大きな功績をあげている。また大正中期から死の前日まで日記を書き継ぎ、大切に保存していた。戦前戦後の社会世相・風俗の変遷を活写しており貴重であるが、公表を意図して書かれている点に注意すべきである。多額の遺産(2005年現在の貨幣価値で3億円以上)を残していたことでも話題を呼んだ。晩年のストリップ通いは有名 UP






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