丸メガネの人物史~海外編(その他)


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海外の丸メガネをかけた政治家などをご紹介します。








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生年順
生年 名前
1810 カヴール
1850 エデュアルト・ベルンシュタイン
1856 ウッドロー・ウィルソン
1858 セオドア・ルーズベルト
1869 ガンジー
1874 チャーチル
1877 ヒャルマル・シャハト
1879 トロツキー
1884 トルーマン
1888 ジョセフ・P・ケネディー
1893 アレン・ダレス
1893 ハロルド・ラスキ
1897 チャンドラ・ボース
1906 溥儀
1907 溥傑

カヴール

カミッロ・ベンソ・コンテ・ディ・カヴール(1810年8月10日 - 1861年6月6日)は、イタリアの政治家。イタリア王国首相(閣僚評議会議長・初代)、外務大臣(初代)、サルデーニャ王国首相を歴任。ジュゼッペ・ガリバルディ、ジュゼッペ・マッツィーニと並ぶ「イタリア統一の三傑」と称される。1861年、マラリアにより死亡。その生涯はイタリア統一のために捧げられ、内に共和派の突き上げ、外に大国(オーストリア・フランス)の干渉という難題を抱えながら、卓越した政治力を駆使して統一を成し遂げた功績から後世「神がイタリア統一のため地上に使わした男」と呼ばれるようになった。UP





エデュアルト・ベルンシュタイン

エドゥアルト・ベルンシュタイン(Eduard Bernstein, 1850年1月6日 - 1932年12月18日)は、ドイツの社会民主主義理論家・政治家。ベルリンでユダヤ系の家庭に生まれる。ドイツ社会民主党(SPD)党員。社会民主主義、修正主義の理論的創始者。UP





ウッドロウ・ウィルソン

トマス・ウッドロウ・ウィルソン(1856年12月28日 - 1924年2月3日)は、第28代アメリカ合衆国大統領。政治学者であり、アンドルー・ジャクソンの次にホワイトハウスで連続2期を勤めた2人目の民主党員。

第一次世界大戦末期の1918年1月8日に、ウィルソンは有名な“十四か条の平和原則”を発表し、その中で彼は国際平和機構の設立を提唱。国際連盟として実現したが、アメリカ自身は議会の反対で加盟できなかった。
第一次世界大戦後、和平会談に出席するため1918年12月4日ヴェルサイユへ出発。6か月に渡るパリ講和会議の結果として締結されたヴェルサイユ条約に合衆国代表として調印した。この会議で締結された国際連盟規約委員会では議長を務めた。
このとき日本全権である牧野伸顕は、連盟規約に人種的差別撤廃を入れるように提案した。(人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初である。)、それまで、全ての議題は多数決で採決されていたため、賛成多数により可決かと思われたが、議長であったウィルソンが、突如「重要な議題については全会一致が必要である」として、日本の提案を退けた事で知られている。
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セオドア・ルーズベルト

セオドア・ルーズベルト(1858年10月27日 - 1919年1月6日)は、アメリカ合衆国の第26代大統領。第32代大統領フランクリン・ルーズベルトは彼の従兄弟に当たる。愛称はテディ。

1905年に日露戦争で日本・ロシア間の調停をつとめ、停戦からポーツマス条約での和平交渉に尽力した。この和平交渉の斡旋によって1906年ノーベル平和賞を受賞した。ポーツマス条約の斡旋に乗り出したのはハーヴァード大学時代の友人金子堅太郎の働きもあったと言われる。また自身は日本贔屓でもあったようで、アメリカ人初の柔道茶帯取得者であり、山下義韶から週3回の練習を受けるとともに、山下が海軍兵学校で柔道を教えるよう尽力した。また、忠臣蔵の英語訳本を愛読していたとの逸話がある。ただ、日露戦争後は、次第に極東で台頭する日本に対しては警戒心を感じるようになり、やがて贔屓も薄れ、事務的かつ冷淡な場面も散見された。いわゆる排日移民法の端緒も彼の時代である。1904年にボクシングで左目を打たれ、1908年には失明していた。それを知っていたのはごく親しい友人のみである。UP





ガンジー

ガンジー 1869年-1948年
インドのグジャラート出身、マハトマ・ガンジーとして知られるインド独立の父、宗教家、政治指導者。UP





チャーチル

チャーチル (1874年11月30日 - 1965年1月24日)は、イギリスの政治家。1940年から1945年にかけてイギリス戦時内閣の首相としてイギリス国民を指導し、第二次世界大戦を勝利に導いた。文才とユーモアとウィットのセンスにとみ、ノーベル文学賞も受賞している。第二次世界大戦を描いた一連の大作は有名。UP




シャハト

ホレイス・グリーリ・ヒャルマー(ヤルマル)・シャハト(1877年1月22日 - 1970年6月3日)は、ドイツ・ヴァイマル共和政、ナチス・ドイツ期に活躍した財政家、政治家。ドイツ国立銀行総裁。ドイツ経済大臣(在任:1935年 - 1937年)。
ナチス初期の経済政策は、ほとんどシャハトの発案といわれる。1935年5月には戦争経済準備のための全権委員に指名されるが、インフレを招く懸念があり、侮られぬ程度の軍は持つべきだが、攻めるための軍は不要という本人の思想に基づいて軍備拡張に反対してヘルマン・ゲーリングと対立、1937年11月に経済相と全権委員を解任され、さらに1939年1月にドイツ国立銀行総裁からも解任された。
終戦後、1948年9月までの服役を経て、後デュッセルドルフ銀行でインドネシアやエジプトなど発展途上国の経済・財政に関するアドバイザーとして活動した。1970年に、自宅での転倒事故が原因の塞栓症で死去した。UP





トロツキー

トロツキー 1879年-1940年
ロシアの革命家  学生時代から革命運動に参加。1898年逮捕。1900年シベリア流刑。海外逃亡。1917年 帰国し共産党に入党。軍事革命委員会を指導。政権樹立後は、外相などで活躍。しかし、スターリンの”一国社会主義”を批判して”永久革命論”を唱え党を除名さる。1929年国外追放。1940亡命先のメキシコで暗殺される。
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トルーマン

ハリー・S・トルーマン(1884年5月8日 - 1972年12月26日)は、アメリカ合衆国の第34代副大統領および第33代大統領。ルーズベルト大統領の死を受けて1945年に副大統領から大統領に昇格。彼が日本への原子爆弾投下を指示した。この原爆の日本への使用については、後に共和党大統領となるアイゼンハワーなどが猛反対しており、共和党支持者の米陸海軍の将軍たち(マッカーサーも含む)は全員が反対意見を具申している。アイゼンハワーに至ってはスティムソン陸軍長官に対し「米国が世界で最初にそんなにも恐ろしく破壊的な新兵器を使用する国になるのを、私は見たくない」(一九六三年の回想録)と何度も激しく抗議していた。
トルーマンが原爆投下を決定した背景として、アメリカ軍の損失を最小限に止めること、実戦での評価、戦後の覇権争いでソ連に対して優位に立つという目的があったとする一方、「潰れた洋品店の親父」の様な風貌などという酷評にさらされた自らを男らしい決断力のある存在として誇示する考えと、人種的偏見があったとする説もある。UP





ジョセフ・P・ケネディー

ジョセフ・パトリック・ケネディ(“ジョー”ケネディ,1888年9月6日 - 1969年11月18日)はアメリカ合衆国の実業家・政治家。「プロテスタントでなければ政治家になってはいけない」という当時のアメリカ国内の暗黙の掟を初めて破ったカトリックの政治家として、そして第35代大統領のジョン・F・ケネディと同政権下の司法長官ロバート・ケネディの父として知られる。一方で、マフィアとの深い関係が度々取り沙汰された人物である。1929年の世界恐慌による株価暴落を事前に察知し、持ち株の殆どの売り逃げに成功し、他の投資家たちが破産するのを尻目に莫大な利益を得、以後はそれを元手に堅実な事業に専念した。相場から撤収する時期を知ったのは、靴磨きの少年が株の話をするのを聞いた時だと言う。UP




アレン・ダレス

アレン・ウェルシュ・ダレス(Allen Welsh Dulles, 1893年4月23日 - 1969年1月29日)は、アメリカ合衆国の政府高官の1人で元CIA長官。
1953年から1961年までCIA長官を務めた。国務長官ジョン・フォスター・ダレスの弟で、ウォーレン委員会のメンバー。さらにユナイテッド・フルーツ社の株主。日本とスイスの合作により映画化もされた西村京太郎原作の小説『D機関情報』(映画版のタイトルは『アナザー・ウェイ ―D機関情報―』)に登場、日本海軍中佐と共に最後まで日米和平工作(終戦工作)に奔走した“ミスターD”のモデルと言われる。UP




ハロルド・ラスキ

ハロルド・ジョセフ・ラスキ(Harold Joseph Laski, 1893年6月30日-1950年3月24日)は、多元的国家論を唱えた英国の政治学者。労働党の幹部でもあった。マンチェスターでポーランド系ユダヤ人の家庭に生まれる。オックスフォード大学で学ぶ。カナダ・マギル大学、ハーヴァード大学、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)などで教鞭をとる。1912年、フェビアン協会を通じて、労働党に入党。1934年のソ連訪問後、マルクス主義に傾倒。英国では戦時中極めて評価が高く、戦後にはロンドン・スクール・オブ・エコノミクス政治科学部長を務めた。日本では、戦後受容された。UP 




チャンドラ・ボース連光寺に建立された銅像

スバス・チャンドラ・ボース (1897年1月23日 - 1945年8月18日)はインドの急進的独立運動家、インド国民会議派議長、自由インド仮政府国家主席兼インド国民軍最高司令官。ベンガル人。ネタージ(指導者)の敬称で呼ばれる。

穏健派のガンジーと対立し、国民会議派に入り急進派(左派)として活躍。日本の支援により日本統治下のシンガポールで「自由インド仮政府首班」に就任。「インド国民軍」の最高司令官にも就任し、1944年日本軍とともにインパール作戦に参加した。しかし、日本の敗戦により、日本と協力してインド独立を勝ち取ることが不可能となった。ボースは東西冷戦を予想し、イギリスに対抗するためソ連と協力しようとしたが、ソ連へ向かおうとした時、台湾で飛行機事故にあい死去した。ボースの遺骨は東京都杉並区の日蓮宗蓮光寺で眠っている。UP





愛新覚羅溥儀

愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ1906年2月7日 - 1967年10月17日)
中国における清朝の第12代皇帝宣統帝(せんとうてい、1908年 - 1912年)であり、「最後の皇帝」として広く知られる。
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愛新覚羅溥傑

愛新覚羅溥傑(あいしんかくら ふけつ、1907年4月16日-1994年2月28日)は、清朝最後の皇帝である宣統帝(溥儀)の弟。清朝における地位は醇親王継嗣、満州国軍人としての階級は陸軍中校(中佐に相当)。中華人民共和国では全人代常務委員会委員。書家でもあり、流水の如き独特の書体は流麗で人気が高かった。1937年に嵯峨侯爵家の令嬢で天皇家の親戚に当たる嵯峨浩と政略結婚をしたが、2人の仲は円満で、2女(慧生、嫮生)に恵まれた。日中友好の懸け橋として両国間で活躍し、1991年には立命館大学より名誉法学博士の名誉学位を贈呈される。1994年に北京で逝去し、遺骨は溥傑の生前からの希望によって浩・慧生(学習院大学に進学していた長女の慧生は、交際していた同級生と伊豆天城山でピストル心中した)の遺骨と共に日中双方によって分骨され、日本側の遺骨は山口県下関市の中山神社境内にある摂社愛新覚羅社に、浩・慧生の遺骨とともに納められ、中国側の遺骨は三人共に中国妙峰山上空より散骨された。UP





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