丸メガネの人物史~日本編(政治家・軍人)


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政治家や軍人では、こんな人たちが丸メガネをかけていました。


     

《生年順》
  

 

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《生年順》
生年 名前
1560 大久保彦左衛門
1854 高橋是清
1855 頭山満
1857
後藤新平
1858 尾崎行雄
1860 加藤高明
1861 牧野伸顕
1864 杉山茂丸
1867 武藤山治
1867 平沼騏一郎
1867 鈴木喜三郎 
1869 井上準之助
1870 濱口雄幸
1872 幣原喜重郎
1873 関一
1874 松尾国松
1875 阿部信行
1876 林 銑十郎 
1877 野村吉三郎
1878 吉田茂
1880 松岡洋右
1882 森 恪
1882 東郷茂徳
1883 鳩山一郎
1884 永田鉄山
1884 東条英機
1884 有田八郎
1884 石橋湛山
1887 重光葵
1887 片山哲
1889 山本宣治
1891 甘粕正彦
1891 根本博
1891 山崎保代
1892 武藤章
1895 辰巳栄一
1899 池田勇人
1901 工藤俊作
1902 辻政信
1902 石田一松
1905 安藤輝三
1905 磯部浅一

大久保彦左衛門

大久保 忠教(おおくぼ ただたか、永禄3年(1560年) - 寛永16年2月29日(1639年4月2日)は戦国時代の武将。徳川家臣・大久保忠員の八男。通称の彦左衛門で有名。『三河物語』の著者としても知られる。
三河国上和田(愛知県岡崎市)に生まれ、17歳のときに兄忠世と供に遠江平定戦に参加。犬居城での合戦が初陣という。以後忠世や忠佐らの旗下で各地を転戦。関ヶ原の戦いでも家康本陣で槍奉行を務め活躍した。大坂の陣にも槍奉行として従軍。家康死後も徳川秀忠の上洛に従い、徳川家光の代になって旗奉行となっても晩年まで武士としての生き方を貫いた。死の間際に家光から5000石の加増をうけたが、「余命幾ばくもない自分には有り難いが不要」と固辞したと伝えられている。






高橋是清

高橋 是清(たかはし これきよ、1854年9月19日(安政元年閏7月27日)- 1936年(昭和11年)2月26日)
日本の政治家。第20代内閣総理大臣 UP



頭山満

頭山 満(とうやま みつる 1855年5月27日(安政2年4月12日) - 1944年(昭和19年)10月5日、福岡県出身)は、アジア主義(あるいは「大アジア主義」とも)の立場で運動をおこなった右翼の巨頭、国家主義運動家、篤志家、実業家(鉱山経営者)、黒幕。幼名は乙次郎。金玉均や孫文、ラス・ビハリ・ボースら日本に亡命した革命活動家らへの援助を積極的に行ない、アジア各国に多くの人材を送り出した。UP



後藤新平

写真提供:
水沢市教育委員会社会教育課文化財係
後藤新平(ごとう しんぺい)安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4年(1929年)4月13日)は明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家。台湾総督府民政局長(のち民政長官)として民政統治の確立に努める。さらに満鉄の初代総裁として広軌鉄道施設・撫順炭砿開発・大連病院建設など満州経営の基礎を作る。1908年(明治41)第2次桂内閣に逓信相として入閣、新設の鉄道院・拓殖局の両総裁も兼ねる。1920年(大正9)東京市長に就任、いわゆる8億円計画という都市改造案を提案。山本権兵衛内閣の内相に返り咲き、関東大震災の復旧処理に当った。日本ボーイスカウト初代総裁。UP




尾崎行雄

「尾崎行雄を全国に発信する会」の写真で見る咢堂より

尾崎 行雄(おざき ゆきお、安政5年11月20日(1858年12月24日) - 昭和29年(1954年)10月6日)は、日本の政治家。日本の議会政治の黎明期から戦後に至るまで衆議院議員を務め、当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録と複数の日本記録を有することから「憲政の神様」、「議会政治の父」と呼ばれる。正三位勲一等(昭和21(1946年)返上)。
明治36年(1903年)から同45年(1912年)まで9年にわたり東京市長に就任。市長在任中にアメリカ合衆国へソメイヨシノ2000本を贈り、ポトマック川に植樹された。だがこれらのソメイヨシノは虫害によって焼却されてしまい、後に3100本の桜が新たに植樹されている。永年在職議員表彰第1号、衆議院名誉議員(50年以上の議員在職者。衆院の正面玄関に胸像を建立)第1号、東京都名誉都民第1号。号は咢堂(がくどう。UP





加藤高明

加藤 高明(かとう たかあき)、万延元年1月3日(1860年1月25日) - 大正15年(1926年)1月28日)は日本の外交官、政治家。愛知県出身。第24代内閣総理大臣。娘は岡部長景の妻。新選組隊士佐野七五三之助は母方の伯父にあたる。
東京大学法学部を首席で卒業し、三菱に入社。岩崎弥太郎の長女と結婚。官界に転じ、大蔵省銀行局長、駐英公使などをつとめる。また、各内閣の外相を歴任。大正13年(1924年)内閣総理大臣就任。翌年普通選挙法、治安維持法、日ソ基本条約を成立させた。また、この内閣には元総理の高橋是清、加藤のあと次々と総理となる若槻禮次郎、濱口雄幸、幣原喜重郎(臨時)、犬養毅が閣僚におり、本格的な政党政治時代のスタートに相応しい内閣であったと言えよう。UP





牧野伸顕

牧野 伸顕(まきの のぶあき、文久元年10月22日(1861年11月24日) - 昭和24年(1949年)1月25日)は明治から戦中にかけての政治家。位階勲等爵位は従一位勲一等伯爵。薩摩藩士・大久保利通の二男として生れ、生後間もなく利通の義理の従兄弟にあたる牧野吉之丞の養子となる。吉田茂は娘婿、麻生太郎と寬仁親王妃信子は曾孫にあたる。

イタリア、オーストリア公使歴任ののち西園寺内閣の文部大臣、山本内閣で外務大臣を務める。対外協調的な外交姿勢と英米型自由主義による政治姿勢を基調とし、一方では薩摩閥により広く政界、外交界、宮中筋と通じるという、独自の地位を築きあげた。大正8年(1919年)、第一次世界大戦後のパリ講和会議に次席全権大使として参加。国際連盟規約に人種的差別撤廃を入れるよう提案し、世界で初めて人種差別撤廃を明確に主張した。→ウッドロウ・ウィルソン 二・二六事件の際には襲撃されるも、近親者の機転によって難を免れた。UP





杉山茂丸

杉山 茂丸(すぎやま しげまる、元治元年8月15日(1864年9月15日) - 昭和10年(1935年)7月19日)は、明治から大正、昭和初期にかけて、それぞれの時代の政界実力者と結び、経済や外交、内政などにさまざまな献策を行った人物である。自らは官職も議席も持たない在野の浪人であったが、山縣有朋、松方正義、井上馨、桂太郎、児玉源太郎、後藤新平、寺内正毅らの参謀役を務め、政界の黒幕などと呼ばれた。実は戦国大名龍造寺隆信の末裔である。長男は作家の夢野久作。孫はインド緑化の父と言われる杉山龍丸、詩人の杉山参緑。戯号として其日庵(そのひあん)。戒名は其日庵隠忠大観居士。UP




武藤山治

武藤 山治(むとう さんじ、1867年4月5日(慶応3年3月1日) - 1934年(昭和9年)3月10日)は、愛知県出身の実業家、政治家。鐘紡社長、時事新報社社長などを務めた。
慶応義塾卒業後、アメリカに留学。帰国後、銀座に日本初の新聞広告取次業を創始。新聞記者等を経て、1893年中上川彦次郎による三井の改革時に招かれて三井銀行に入行。翌年鐘淵紡績会社に移り、大正10年(1921)社長就任。13年(1924)から代議士としても活動。昭和5年(1930)鐘紡社長を辞任。7年(1932)政界引退後時事新報社長となり、帝人事件で政財界の腐敗を糾弾中、狙撃され死去した。UP




平沼騏一郎

平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう、慶応3年9月28日(1867年)10月25日 - 昭和27年(1952年)8月22日) 岡山県出身。司法官僚。第35代内閣総理大臣。日本大学第2代総長。大東文化学院(現大東文化大学)初代総長。衆議院議員の平沼赳夫は、平沼騏一郎の兄である経済史学者で早稲田大学学長を務めた平沼淑郎の曾孫である。UP





鈴木喜三郎

鈴木 喜三郎(すずき きさぶろう、慶応3年10月11日(1867年11月6日)- 1940年6月24日)は、日本の司法官僚、政治家。鳩山一郎は義弟(夫人の弟)。犬養毅暗殺後の立憲政友会第7代総裁(在任、1932年 - 1937年)を務めた。UP





井上準之助

井上 準之助(いのうえ じゅんのすけ、明治2年(1869年3月25日)- 昭和7年(1932年)2月9日)は、日本の政治家、財政家。日本銀行第9、11代総裁。第二次山本、浜口、第二次若槻内閣の蔵相。UP




濱口雄幸

濱口 雄幸(はまぐち おさち、明治3年4月1日(1870年5月1日) - 昭和6年(1931年)8月26日)は、政治家。明治生まれの初の内閣総理大臣。
幸雄と命名されるが、父親が出生届を出しに役所に行く途中で酒を飲み、誤って名前を前後逆に記入してしまい雄幸となった。
その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれ、謹厳実直さも相まって強烈な存在感を示しつつも大衆に親しまれた。戦後不況、社会不安が増大する中で、軍拡から軍縮に転換し、その軍縮余剰金を財源に、国民負担を軽減する施策を提示し、積極財政から緊縮財政へという政治家の信念を貫き通す姿勢は高く評価する者もいたが、反面緊縮財政がデフレ不況を悪化させ、国民生活を圧迫し社会不安を増大させるなど、経済政策においては酷評されることも多い。UP




幣原喜重郎

幣原 喜重郎(しではら きじゅうろう、1872年9月13日(明治5年8月11日)- 1951年(昭和26年)3月10日)は明治~昭和期の政治家、外交官。戦前に4回外務大臣を務め、党人派の幣原外交として軍人派の田中外交と対立する。終戦後は第44代内閣総理大臣、第40代衆議院議長(内閣総理大臣経験者の衆議院議長は初めて)に就任した。UP




關一

關 一(せき はじめ、1873年9月26日 - 1935年10月26日)は、社会政策学者・都市計画学者及び大阪市長等を務めた政治家。静岡県伊豆生まれ。第6代大阪市長の池上四郎から懇請され大阪へ。1923年市長に就任。「都市の大改造」を打ち出し、メインとして「御堂筋」の拡幅工事を手がけた。大阪に御堂筋を造って発展の基礎を固め、東京の後藤新平と双璧をなす、名市長と言える。大阪市政への功績がたたえられ、中之島にその銅像が建立されている。UP





松尾国松

松尾 国松(まつお くにまつ、1874年(明治7年)7月29日 - 1958年(昭和33年)1月17日)は、大正期、昭和期の日本の政治家。元岐阜市長(1925年3月7日~1946年6月7日)。貴族院議員(1946年3月22日~1947年5月3日)。岐阜市名誉市民
市長在任中に、上下水道の整備、1932年(昭和7年)には市立岐阜薬学専門学校(現岐阜薬科大学)を創立、1941年(昭和16年)には岐阜市診療所を新築移転し、岐阜市民病院を開設などしている。1958年(昭和33年)に岐阜市立図書館の開館のさい、生前の愛読書約4,000冊が寄贈され、松尾文庫として配架されている。長男は松尾吾策。国松と同じく岐阜市長を勤めている。UP




阿部信行

阿部 信行(あべ のぶゆき、明治8年(1875年)11月24日 - 昭和28年(1953年)9月7日)は日本の陸軍軍人、政治家。第36代内閣総理大臣。石川県金沢市生まれ。旧金沢藩士の子としてうまれる。義弟には井上成美(最後の海軍大将)がいる。UP





林 銑十郎

林 銑十郎(はやし せんじゅうろう、1876年(明治9年)2月23日 - 1943年(昭和18年)2月4日)は、石川県金沢市出身の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は正二位。勲等は勲一等。功級は功四級。 陸軍大臣、内閣総理大臣(第33代)、外務大臣(第53代)、文部大臣(第46代)などを歴任した。
林内閣は財界と軍部の調整を図って大蔵大臣に財界出身の結城豊太郎・日本商工会議所会頭を充て、その財政は「軍財抱合」と呼ばれた。また、急造の内閣であったため兼任の国務大臣が多く「二人三脚内閣」とも呼ばれ、また、短命の内閣で特に大きな実績も残せなかったことから、林首相の名をもじって「何もせんじゅうろう内閣」と揶揄された。UP




野村吉三郎

野村 吉三郎(のむら きちさぶろう、1877年12月16日 - 1964年5月8日)は日本の軍人、外交官、政治家。和歌山県出身。海軍大将。太平洋戦争勃発まで日米交渉に従事した。国際通であったことから、阿部信行内閣において外務大臣に。1941年(昭和16)1月、日米関係が悪化の一途をたどる中、駐米特命全権大使に起用され、来栖三郎大使と共に、英・米との戦争回避のためにハル国務長官と交渉を行ったが、ハル・ノートを最後通牒と受け取った日本は真珠湾攻撃を決定、アメリカとの間に太平洋戦争に突入することとなった。なお、アメリカ合衆国に対する宣戦布告が遅れ、国際的非難を浴びた事について、野村吉三郎駐米大使らの新庄健吉の葬儀出席が原因と言う。UP




吉田茂

吉田 茂(よしだ しげる、1878年(明治11年)9月22日 ‐ 1967年(昭和42年)10月20日)日本の外交官・政治家。内閣総理大臣(45・48・49・50・51代)。癇癪持ちの頑固者であり、また洒脱かつ辛辣なユーモリストとしての一面もあった。公私に渡りユニークな逸話や皮肉な名台詞を多数残している。孫は麻生太郎氏。UP


松岡洋右

松岡 洋右(まつおか ようすけ、1880年3月4日 - 1946年6月27日)は日本の外交官、政治家。日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結など第二次世界大戦前夜の日本外交の重要な局面に代表的な外交官ないしは外務大臣として関与した。UP





森 恪

森 恪(もり かく、明治16年(1882年)2月28日 - 昭和7年(1932年)12月11日)は、昭和戦前期の大阪出身の政治家、衆議院議員。本名はもり つとむ。
東洋のセシル・ローズを自認した帝国主義者。軍部と提携し、日本の中国侵出に大きな役割を果たした。三井物産上海支店時代に中国語、英語に通じたほか、日露戦争では、東シナ海洋上を接近するバルチック艦隊の航跡をいち早く発見、打電して、日本海海戦の勝利に民間から貢献した。また、辛亥革命では孫文に対し革命資金の斡旋を行った。三井物産天津支店長を経て東洋製鉄など次々と事業を興して事業家となったのち、政界に進出。田中義一政権下で政務次官ながら事実上の外相として対中国強硬外交を強力に推進し、山東出兵、東方会議開催などに奔走した。犬養内閣では内閣書記官長となるも、大陸政策をめぐって犬養と対立。犬養に対して内閣改造を提言するが容れられず、辞表を提出、預かりとされる。その後、持病の喘息に肺炎を併発し、滞在先の鎌倉海浜ホテルにて十河信二と鳩山一郎夫妻に看取られ死去。享年50。UP





東郷茂徳

東郷 茂徳(とうごう しげのり、1882年12月10日 - 1950年7月23日)は大正、昭和前期の外交官。
太平洋戦争開戦時及び終戦時の日本の外務大臣。東条英機内閣で外務大臣兼拓務大臣として日米交渉にあたるが、日米開戦を回避する事は出来なかった。だが、早期講和への道を探るために敢えて辞職をしなかった。その後、大東亜省の設立に反対し、東条首相と対立したため外務大臣を辞職。鈴木貫太郎内閣で外務大臣兼大東亜大臣として終戦工作に尽力して日本の本土決戦突入という凄惨な事態を回避する事が出来た。それにも関わらず戦後、開戦時の外相であったがために連合国側から戦争責任を問われ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で禁固20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没。遺著に『時代の一面』がある。UP





鳩山一郎

鳩山一郎(はとやま いちろう、1883年1月1日 - 1959年3月7日)は、政治家、弁護士。
第52・53・54代内閣総理大臣。正二位 大勲位。自由民主党の初代総裁であり、日本国とソビエト社会主義共和国連邦との二国間の国交回復を成し遂げた内閣総理大臣でもある。
貴族主義的でワンマンと呼ばれた吉田茂が不人気で政権を降りた後に首相を務め(1954-1956年)、鳩山ブームを起こした。吉田のアメリカ中心の外交から転換し、懸案であった日ソ国交回復を成し遂げた。盟友で寝業師と言われた三木武吉の尽力により日本民主党・自由党の保守合同を成し遂げ、自由民主党を結成。これにより保守勢力と革新(この時点では社会主義)勢力を軸とした55年体制が確立された。UP




永田鉄山

永田 鉄山(ながた てつざん、1884年1月14日 - 1935年8月12日)は、日本の陸軍軍人。統制派の中心人物。陸軍省軍務局長、歩兵第1旅団長、参謀本部第2部長を歴任し、階級は陸軍中将に至る。硫黄島の死闘でアメリカ軍を苦しめ抜き、敵ながらあっぱれと、いまなお米軍の賞賛の的になっている栗林忠道大将(戦死する数日前に大将になった)が唯一尊敬していたのが、この永田鉄山であり、永田の人格識見歴史観などは、当時の陸軍の中で卓越していたと言われている。UP



東条英機

東條 英機(1884年7月30日 — 1948年12月23日)は、陸軍軍人、政治家、第40代内閣総理大臣。
極東国際軍事裁判(東京裁判)で絞首刑の判決を受け、12月23日、巣鴨拘置所(スガモプリズン)内において死刑執行、享年64。辞世の句は「我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば」。UP




有田八郎
1953年4月19日に行われた第26回衆議院議員総選挙で当選したときの有田八郎、世界通信より

有田 八郎(ありた はちろう、1884年(明治17年)9月21日 - 1965年(昭和40年)3月4日)は、新潟県佐渡郡真野町(現・佐渡市真野)出身の外交官、政治家。貴族院勅選議員、衆議院議員1期(第26回)。号は澤農。
山本家に生まれ、有田家の養子となった。実兄の山本悌二郎は立憲政友会所属の政党政治家で、田中義一内閣及び犬養内閣で農林大臣を務めたことで知られている。戦前は「欧米協調派」に対する「アジア派」の外交官として知られ、近衛内閣時代に東亜新秩序の建設表明をした。日独伊三国同盟には最後まで反対したが戦後は公職追放。追放解除後は革新陣営に属し日本の再軍備に反対したことで有名である。UP




石橋湛山

石橋 湛山(いしばし たんざん、1884年(明治17年)9月25日 - 1973年(昭和48年)4月25日)は、日本のジャーナリスト、政治家。第55代内閣総理大臣。自由民主党総裁。従二位勲一等。早稲田大学名誉博士(Doctor of Laws)
戦前から一貫して日本の植民地政策を批判し加工貿易立国論を唱え、戦後は日中米ソ平和同盟を主張し政界で活躍した。保守合同後初の自民党総裁選を制して総理総裁となるが、在任2ヵ月弱で脳梗塞を発症して退陣した。
湛山は日蓮宗の僧侶として得度してからの名前で、俗名は省三。UP




重光葵

重光 葵(しげみつ まもる、1887年(明治20年)7月29日 - 1957年(昭和32年)1月26日)は昭和前期の外交官・政治家。昭和の動乱期に外務大臣を務め、東京裁判ではA級戦犯で有罪。仮釈放と赦免後、政界に再復帰した。第一次鳩山一郎内閣では外務大臣を務める。ソ連との国交回復と、国連加盟に尽力した。1956年(昭和31年)12月18日、国連本部で日本代表として加盟演説を行う。
1932年(昭和7年)、朝鮮の独立運動家尹奉吉の爆弾テロにより右足を失うが、まったく意に介さず、重光を知る者は「欠点がないことがやつの欠点だ」と語ったという。UP



片山哲

片山 哲(かたやま てつ、明治20年(1887年)7月28日 - 昭和53年(1978年)5月30日)は日本の政治家で、第46代内閣総理大臣。UP




山本宣治

山本 宣治(やまもと せんじ、1889年(明治22年)5月28日 - 1929年(昭和4年)3月5日)は、京都府出身の政治家、生物学者。山本宣治を略して山宣(やません)と呼ぶこともある。

病弱のため神戸第一中学校を中退した山宣は、両親が彼の養育のために建てた宇治川畔の別荘(後に料理旅館「花やしき浮舟園」に発展)で花づくりをして育った。その後、1907年からカナダのバンクーバーへ5年間、園芸留学し、この間に『共産党宣言』『種の起源』『進化論』などを学び、人道主義者やキリスト教社会主義者と交流を深めた。帰国後、28歳の時に東京帝国大学理学部に入学。卒業後、京都帝国大学大学院で動物学を専攻、また、同志社大学、京都帝国大学の講師を勤めた。

性教育の啓発と性科学の普及運動に関わり、産児制限運動を行うなか、左翼系の社会運動との関わりを強め、1928年の第1回普通選挙に京都2区から立候補し、2041票で当選した。1929年3月5日、衆議院で治安維持法改正に反対討論を行う予定だったが、与党政友会の動議により強行採決され、討論できないまま可決された。その夜、右翼団体である「七生義団」の黒田保久二に刺殺された。死後、日本共産党員に加えられた。なお、母の多年も戦後共産党に入党している。

墓碑の「花屋敷山本家之墓」を揮毫したのは、宮廷歌人・書家の阪正臣。阪は思想的には山本と対照的な立場であったが、母の多年が和歌で阪に師事したいきさつによる。「花やしき浮舟園」は歌人・文学者・芸術家たちの定宿となるなど、相応の格式を持った旅館であり、現在も営業しているUP





甘粕正彦

甘粕 正彦(あまかす まさひこ、1891年1月26日 - 1945年8月20日)は、日本の陸軍軍人。陸軍憲兵大尉時代に甘粕事件を起こしたことで有名(無政府主義者大杉栄らの殺害)。短期の服役後、日本を離れて満州に渡り、関東軍の特務工作を行い、満州国建設に一役買う。満州映画協会理事長を務め(官僚的な強権主義者としてのイメージとは裏腹に、非常に洗練された趣味を持ち流行にも敏感な文化人でもあり、ドイツ訪問時に当時の最新の映画技術を満州に持ち帰り、戦後、東映の黄金期を築くことにもなった。)、終戦直後、服毒自殺した。
*甘粕事件の主犯は甘粕大尉ではないとする説は根強く存在し、後の満州時代、甘粕はこの事件に触れ、「あの事件は“俺がやった”ということになっている」と言ってニヤッと笑ったという証言もある。最近甘粕の汚名をはらし再評価する評伝本がでた。UP




根本博

根本 博(ねもと ひろし、1891年(明治24年)6月6日 - 1966年(昭和41年)5月24日)は、日本陸軍の軍人で陸軍中将功三級。福島県出身。仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校卒、 陸士23期。陸大34期。終戦時にはモンゴル(当時は蒙古聯合自治政府)に駐屯していた駐蒙軍司令官で、終戦後もなお侵攻を止めないソ連軍の執拗な攻撃から、蒙古聯合自治政府内の張家口付近に滞在する邦人4万人を、司令官として救った。復員後1949年に台湾へ渡り、金門島における戦いを指揮して、中国人民解放軍を撃破、今に至る台湾の分離確定に大きく寄与した。UP





山崎 保代

山崎 保代(やまさき やすよ、1891年10月17日 - 1943年5月29日)は山梨県出身の大日本帝国陸軍の軍人で最終階級は陸軍中将。米軍が大きな損害を受けたアッツ島の戦い(大東亜戦争の防衛戦で、最初の玉砕戦となった。)を指揮し、17日間の激しい抗戦の後戦死した。1943年2月に北海守備第2地区隊長に任命され、潜水艦でアッツ島に着任した彼の任務は独力で島を堅守することであった。アッツ島で2650名の守備隊を指揮し水際防御ではなく、硫黄島と同じく敵を島の高地に引き込む戦術を採用し陣地を構築。最後の一人が倒れるまで戦い、山崎司令官も戦死した。その結果上陸した米軍との戦闘は大東亜戦争の激戦のひとつとして記憶されることとなった。UP





武藤章

武藤 章(むとう あきら、1892年(明治25年)12月15日 - 1948年(昭和23年)12月23日)は、熊本県出身の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。第14方面軍司令官に任命された山下奉文の希望により第14方面軍参謀長に任命され、フィリピンの地で終戦を迎えた。終戦の際、山下に共に切腹することを提案するが、説得され、現地で降伏し、捕えられた後、極東国際軍事裁判(東京裁判)のため日本に戻され、唯一中将として絞首刑判決を受けた。1948年(昭和23年)12月23日に巣鴨プリズンで絞首刑に処された。
   辞世の句は、
        「霜の夜を 思い切ったる門出かな」
          
         「散る紅葉 吹かるるままの行方哉」UP





辰巳栄一

辰巳 栄一(たつみ えいいち、1895年1月19日 - 1988年2月17日)は日本陸軍軍人。佐賀県出身。陸軍大学校(37期)を優等で卒業。吉田茂が大使だった当時イギリス大使館付武官などを経て陸軍中将となる。
戦後は軍人嫌いの吉田に請われて首相の秘密軍事顧問となり、吉田に憲法改正と再軍備をたびたび進言。辰巳は占領期、旧軍人による反共工作組織「河辺機関」の一員で、連合国軍総司令部(GHQ)の了解の下、新たな軍隊と情報機関の立案に参画していた。また警察予備隊の幹部人選に駐英武官当時からの上司であった吉田茂の腹心として関与。一方でアメリカ中央情報局CIAのスパイ(コードネームは「POLESTAR-5」で、他にも「首相に近い情報提供者」「首相の助言者」などと呼ばれた)として内閣調査室や後の自衛隊の設置に関わる資料をアメリカ政府に流していた事が2009年10月、有馬哲夫・早稲田大学教授のアメリカ国立公文書記録管理局における機密解除資料調査で確認された。1975年1月から1978年12月まで偕行社会長を務めた。UP




池田勇人

池田 勇人(いけだ はやと、1899年(明治32年)12月3日 - 1965年(昭和40年)8月13日)は、日本の大蔵官僚、政治家。広島県生まれ。第58代から第60代まで内閣総理大臣を務めた。正二位大勲位。19世紀生まれの最後の首相である。
佐藤栄作と並び吉田学校の双璧であり、吉田茂の最側近として、連合国との講和、冷戦下における日米関係の構築にかかわると同時に、戦後日本経済の再編成においても指導的な役割を担い、首相就任後は所得倍増計画を打ち出して、日本の高度経済成長の進展にもっとも大きな役割を果たした政治家の一人。UP




工藤俊作

駆逐艦「雷」艦長 工藤俊作

工藤 俊作(くどう しゅんさく、1901年(明治34年)1月7日 – 1979年(昭和54年)1月12日)は、日本の海軍軍人、海軍中佐。

1942年2月27日から3月1日にかけて行われたスラバヤ沖海戦で日本海軍により撃沈された 英国海軍の巡洋艦「エゼクター」と駆逐艦「エンカウンター」の乗員四百数十名は漂流をよぎなくされた。 生存の限界に達したとき、偶然この海域を航行していた日本海軍駆逐艦「雷」に発見された。 英海軍中尉のフォール卿は「日本人は非情」という先入観から全員射殺されるものと覚悟した。 しかし、駆逐艦「雷」艦長海軍中佐 工藤俊作は自艦の危険をかえりみず、国際信号旗を揚げ、 漂流者全員422名を救助した。 しかも、英国海軍士官に英語で健闘を称え、 「本日、貴官らは日本帝国海軍の名誉あるゲストである」とスピーチした。 UP                                                                  
草思社発行「敵兵を救助せよ!」より

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辻政信

辻 政信(つじ まさのぶ、1902年10月11日 - 1961年?)は、日本の陸軍軍人、陸軍大佐、政治家。1952年から衆議院議員を四期、参議院議員を一期務めた。
辻を巡っては、“作戦の神様”と謳われ、マレー作戦等の辣腕振りが評価される一方、陸軍士官学校事件、ノモンハン事件、シンガポール華僑虐殺事件、バターン死の行進、ポートモレスビー攻略作戦、ガダルカナル島の戦いにおける日本軍の責任を辻個人に求める論調も存在する。GHQでは「第三次世界大戦さえ起こしかねない男」とされた。 また、終戦後、現地司令官が参謀である辻に多くの責任をなすりつける旨の証言をしているが、真偽が不明なことが多い。
1961年4月に東南アジアの視察のために出国後、ラオスで行方不明となる。そのまま、1968年7月20日に死亡宣告がなされた。UP





石田一松

石田 一松(いしだ いちまつ、1902年11月18日 - 1956年1月11日)は、広島県安芸郡出身のバイオリン演歌師、政治家。お笑いタレントで吉本興業に所属していたが、戦後は並行して政治家、衆議院議員を務め、タレント議員・第一号とされる。法政大学卒業。1945年の原爆投下で、爆心地から僅か1キロにいた兄弟姉妹3人を失い、この死別が政治家を志すきっかけとなった。芸能活動は辞めず昼は国会、夜はステージに立った。ヒロポン中毒で、長年にわたり打ち続けたヒロポンで身体はがたがたに蝕まれ胃癌により死去した。享年53。
なお、なぎら健壱は彼の孫弟子にあたる。ヒット曲に『酋長の娘』、『のんきな父さん』、『いやぢゃありませんか』など。著書に、自身の哲学、社会批判や自身の生い立ちなどが綴られた「のんき哲学」がある。UP




安藤輝三

安藤 輝三(あんどう てるぞう、1905年(明治38年)2月25日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は大日本帝国陸軍の軍人。二・二六事件に関与した皇道派の人物の一人。二・二六事件後、軍法会議で叛乱罪が申し渡され処刑された。家族から受け取った松陰神社のお守りを身に帯びていたという。UP




磯部浅一

磯部 浅一(いそべ あさいち、明治38年(1905年)4月1日 - 昭和12年(1937年)8月19日)は、日本の陸軍軍人、国家社会主義者。陸軍主計官として階級は陸軍一等主計に至るが、陸軍士官学校事件で免官、後に二・二六事件に関与し銃殺に処される。UP




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